「それは謎だそうなんです。ただ、滅亡に関する言い伝えが一つあって――」
「……セスト。ちょっと良いか」
その傍らで、ルドルフがセストに声をかける。手招きすると、苔むした壁の裏側に来るように誘導して、シナンたちからの視線を遮った。
新緑を弾ませる雨粒の音は、少し潜めた程度の声も掻き消してしまう。セストと向き合ったルドルフは、いつもの陽気で磊落な顔立ちではなかった。
「……。」
「……お前のことだ、俺の言いたいことなんか分かってるだろ?」
応じるセストには、いつものように感情が無い。ルドルフの言っていることが図星だったとしてもだ。
「……心当たりは、幾つかありますが」
「なら、どれから聞きたい?」
彼ならば、遅かれ早かれ気付くだろうと思っていたことだ。それにカムリやジュノにはともかく、ルドルフにそれを隠していたのは、彼がセドウィンの代理であるからだった。すなわち、緊急の際にはアルクェイドよりも、ヴェルクの騎士たちを守ることを優先するための。
「では、あなたが今、最も知りたいことから」
セストがそう答えると、ルドルフはようやく見慣れた笑顔に戻り、うんうんと何度か首を振って見せた。
「……それってのは当然、あのちびっこのことさ。元貴族の豪商の何とかだって言ってたが、違うんだろ?」
「何故そう思われます」
「そんなもん、俺たちが直接送る理由にならねえからよ」
セルヴァニアにおいて、住人とその土地との結びつきは非常に根深いもので、いかなる身分の人間であっても、基本的には生まれた領地から家を移すことがない。様々な土地を行き来しなければならない商人や、女性が他領に嫁ぐというのを例外にして、生まれ故郷以外で過ごす人間というのは、そこにいることが出来なくなったのだと見られるのが普通である。
騎士もまた、自身が属する領地に生涯を捧げる身分だ。だが彼らが武力を持ったままで他領に踏み入るのは、民が住む場所を変えるのとは違い、侵攻行動とみなされる。それ故に、王都の騎士以外が自領を離れるには相応の理由が必要となる。
しかしルドルフには、領境でその領地の騎士団に護送を引き継がないどころか、素性を偽ってまでいることが不可解でならなかった。出発の直前までは、任された役目を果たせばよいと割り切れていたのだが、エンドルで様々な異変に遭遇した今、ルドルフはこの異常な状況を、「そういうこともある」では済ませられなくなっていた。
王都騎士団がエンドル領を支配している、とエイリーンが語った時、あの少年は確かに、ひりついた表情を見せた。彼がその件とは無関係な、ただの王都の民だったのなら、もっとあからさまに驚いてもいいはずだった。
「……あの子、エンドルのことについても何か知ってたんじゃねえのか?」
「それは、私には分かりかねますが」
「ああ、いいんだ。別にあの子が何者であれ、俺は俺の仕事をするだけだからな」
ならば何故聞いたのか、と言いたげなセストの沈黙を受け取って、ルドルフは続ける。
「いや、たぶん良かれと思ってなんだろうけどよ。俺がそうでもしないと役目を果たせないと思われてんのが、ちょっと引っかかっただけだ」
緊張感が欠けているように見えて、ルドルフはこれでも、セドウィンに彼の補佐を任させる器がある。恐らくセドウィンはルドルフに少年の正体を明かせば、彼ができる限り、少年と部下たちのどちらもを守ろうとする、と考えたのだろう。
「ま、俺はお前たちを無事にヴェルクに帰すためについてきたんだ。あのちびっこのことはお前とシナンに任せる」
「答えは聞かないのですね」
ルドルフは喉につかえていたものがそれなりに下りたようで、ふっと肩を落とし、視線を建物の外に向けた。
セストも同じ方を――正確には、雨に閉ざされた木々の間に、微かに覗いた気配を見た。

「――!」
ちょうど雨脚の強さを確認していたシナンも、何かを察知して表情を強張らせる。
すぐさま屋根の下に戻り、座り込んでいたカムリたちに声をかけた。
「カムリ、ジュノ。彼を連れて奥へ」
「え?」
「ど、どうかしたんですか?」
うろたえつつ立ち上がる三人に、シナンは険しさを抑えつつ告げる。
「……何者かが周りを囲んでいるようだ。ひとまずここで応戦する」
「え、本当ですか!?」
トライスが慌てて、抜いた剣を片手に立ち上がる。
「無事か!?」
ほどなく戻ってきたルドルフとセストは、既に武器を構えていた。
「……人数は然程多くない。充分対処できる」
「だが、何者だ?賊の類いが動き始めるには時間が早い」
四人は壁際に固まったアルクェイドたちを守るように広がり、散らばった気配を探ろうとする。まだ明るい時間帯だ。物盗りが目的のならず者であれば、もう少し日が落ちてから、闇に紛れて奇襲をかけるのが常である。
そうでないなら――三人の脳裏にその時、同じ考えがよぎる。アルクェイドは外套の中で、首飾りを祈るように握り締めた。
雨は殆ど止んでいて、梢に残った雫がまばらに落ちてくる程度になっていた。襲撃者たちはそれから距離を詰める様子も無く、睨み合いが続く。
ルドルフは皆に目配せすると、口を開いた。
「何の用だ?」
寂れた空洞に反響した声は、木立の薄闇の奥にも届いただろう。ややもして、シナンの視線の先で何かが動き、柄を握る手に力を込める。
「――ヴェルク騎士団の者たちだな」
返されたのは、大声で叫び続けた直後のような、掠れた女の声だった。
その人影は湿った空気の中に、悪夢のように現れた。
血のような深紅の、伸ばしっぱなしの長い髪。顔の上半分はひび割れた仮面に隠れていて、それでもその双眸が、友好的な光を灯していないことは瞭然としている。
「お前たちの『依頼主』を、渡してもらおうか」
一瞬にして余裕の消え去った空間の中で、ただ一人、シナンの時だけが止まった。

枯れ葉すらも落ち尽くした、真冬の日のことだった。
シナンは母親に頼まれて、燃料になる枯れ枝を集めに外に出て、足取りも軽く家へと帰ってきた。倉庫に入って枝を片付け、通用口から家に入ると、母の姿が無い。
最初は、庭で何かをしているのだと思った。しかし玄関に近付いた時、耳慣れない音がして、はたと足を止めたのだ。
鈍い音だった。明確には分からなかったが、柔らかいとも硬いともつかない、押し潰したような、刺し貫いたような――そう、何か厚みのあるものを、貫いたような音がしたのだ。
手が震えているのには後で気付いた。シナンは扉を開けて庭に飛び出した。そこには母がいて、うつ伏せに倒れ、その背中には真っ赤な染みが広がっていた。
シナンは叫んで、彼女の元に駆け寄った。だが、彼女はその声に、もう何をもっても応えなかった。半狂乱になって母を呼び続けていたシナンは、視線を感じて顔を上げる。
その視線の主は、即座に身を翻して立ち去ってしまったが、その風貌は刹那にもシナンの心に、強い怒りと憎しみ、悲しみを伴って刻み込まれた。
母の命を奪ったのであろうその人物は、仮面をつけ、深紅の長い髪をしていた。

「――シナン!!」
もう誰の声も聞こえなかった。怒号と共に駆け出して、全てを斬撃に乗せた。女は難なくそれを受け止め、感情に任せて続く連撃も簡単にいなす。
充分な距離を取ろうともせず、女はふっと息をつくと、場違いなほど穏やかに語りかけた。
「驚いたな。憶えているのか」
対峙するシナンの目には、もう十年以上も封じていたあの炎が――グレンが危惧し鎮めようとした、激しい憎悪と憤怒が、息を吹き返していた。
「忘れるものか……忘れられるものか!」
その眼光で、再び目の前の姿を、しっかりと捉えて。