「お前が――お前が、母さんを!!」
それは、自らの過ちを悔い、罪人の命すらも守ろうとする「白狼騎」シナンとはかけ離れた姿だった。その背中だけでも、彼が理性を失い、目の前の敵を屠ろうとしているのが分かった。
あまりに突然の、予想もしていないシナンの行動に置いていかれたセストは、シナンが再び女へ斬りかかった瞬間に我に返った。走り出したその前方に、女の部下らしき甲冑が五人、壁のように立ちはだかる。
「……馬鹿が」
声に抑揚は無く、顔にも一つの皺こそないが、それは苛立ちであった。こうなってしまえば最早、彼とルドルフには、アルクェイドたちを守る以外の選択がない。
「……カムリ、ジュノ」
ルドルフは振り返り、静かに三人に告げた。
「馬を出す準備をしろ。敵はあれで全員だ、後ろにはいない」
正直に言えば、それは賭けだった。
女を筆頭としたこの敵は自分たちの素性を知り、また、少年が何者であるかも知っている。ならば、戦う上で必要な情報も、ある程度は持っているのだろう。シナンか少年、どちらかを切り離すことに成功すれば、大幅に取る行動を制限できることくらいは。
エンドルで戦ったような軽装の相手ならまだしも、体中を鎧で覆っている相手を五人倒してシナンを助けに行くのは、セストがいるにしても勝算が低い。それに自分たちが部下の処理にかかりきりになれば、カムリやジュノ、何より依頼人を守る者がいなくなる。
今、残された二人に出来るのは、シナンが女に勝ってこちらに加勢するのを願うこと。もしくは、シナンが我を失った時点で勝ち目はなかったと認め、彼を残して逃走することだ。
至近距離で、火花が散るほどの刃を受け止めた女は、唇を笑みの形へと変えた。
「何がおかしい!?」
シナンの精神を尚も乱し続けるのは、相手の不気味なほどの余裕である。たとえ甲冑越しであろうと、自分が全力で剣を振り下ろしたなら、せめてよろめいたり、一瞬でも力む素振りを見せるはずだ。
しかし、自分の知る女性騎士と比べても大差ない体格のこの相手は、まるで子供の練習に付き合うかのような態度で。
「……因果なものだな。お前も騎士になるとは」
その呟きに、そこに感じ取った僅かな過去の縁に、シナンが気を緩めた隙。女は重ねた刃の下をすり抜けたかのようにシナンの隣へ移り、力任せのまま前に倒れたその鳩尾に、音がするほどに拳を沈めた。
「――!!」
声を出すことも許されない。先程まで、手放そうとしても出来なかった怒りが、煙のように拳をすり抜けていく。
まだ意識は残っている。しかし、生きているのは目だけだった。息が止まっている。指先一つも動かない。甲冑を身に着けた敵の向こうに、取り残された仲間の姿が見えて、ようやく自分の犯した失敗に気付く。
さりとて謝罪を述べることも出来ず、シナンはただ、自分の想いが通じていることを祈った。
「――追うな!」
走り出そうとした甲冑姿が、女の声に制止されたのを最後、その記憶は一度、闇の中に閉ざされた。
「……良いのですか?目的は王子では……」
戻ってきた部下がそう問うと、女はまず、それを肯定した。
「ああ、問題ない。こいつを押さえれば、奴等は自分から顔を出しに来るはずだ」
そして、部下に任せたシナンにちらりと顔を向ける。そのまま何も言わずに、彼女は一足先に、元来た道を戻り始めた。
「……奴等、諦めたか!?」
ルドルフが森の出口で馬を止め、息も切れ切れに叫ぶ。セストが弓を下ろして追い着いてきたのは、もう追っ手がいないことの証明だったが、カムリもジュノも泣きそうになって、上司の顔を窺っていた。
「な、なんなんですか、あいつら……!」
トライスも息を咳き上げて、濡れた地面に吐き捨てる。
だが、誰よりも追い詰められていたのは、他でもないアルクェイドだった。
六人はしばし、誰かが話し始めるのを待って沈黙していたが、やがてルドルフが大きな息を一つつき、いつにもましてよく通る声で告げた。
「……とにかく、一度ヴェルクに戻るぞ。ロラン様に次第を報告して、救出の段取りを練る」
「私はマルキアに行きます」
対して、寸分の迷いもなく言い張るセストに、ルドルフは流石に眉を顰めた。
「待て。何をしに行くつもりだ?」
「ユーリ様――マルキア領主夫人に事の次第を話して、協力が請えないか交渉します。全面的では無くても、何かしらの力が借りられれば」
彼が自分で一度決断したことを、てこでも動かさない性格であることはルドルフも知っている。今更何を言っても無駄だろうが、今の彼の頭からは、自分の状況などすっぽ抜けているに違いなかった。
「……で、俺にこの三人の子守をしながらヴェルクへ戻れって?」
彼らが一度は諦めたと見せかけて、追い打ちをかけてくる可能性も無いとは言い切れなかった。意外にもセストが言葉に詰まっていると、アルクェイドは何も言わずに馬を進め、セストの隣に立つ。
「……私は、セスト殿とマルキアへ行きます」
「君――」
「シナン殿には、今まで何度も助けていただきました」
声は震え、目は潤んでいるが、彼はルドルフから目を逸らすこと無く、自分の意思を伝えた。
「彼を助けるために、私で力になれることなら何だってします」
あの男が城に訪れてから数日が経った。
早速、アルクェイド王子の名前を騙って、旅先で不当に施しを受けている不敬の一団が現れたそうだ。あの男が連れてきた、何とかといった女の率いる部隊が、その討伐に向かったらしい。
寝台の上から眺める窓には、今日も灰色の空が切り取られている。
「ミリアーナ……」
キームゼン領主モリガンは、眠りすぎて判然としない意識の中で、娘の名を呟いた。
彼女が今どこにいるのか、そしていつ、この領地に戻ってくるのか。
そのために自分に出来ること、すべきことも、衰えたこの体には何一つ分からずにいた。
(「岐路」 了)
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