高い城壁をくぐり、すぐに広がる大広間は、円形の床の中心に、石で描かれた領の紋章を配する。朝や昼間は窓から差し込む光が丁度、この紋章を照らすのだが、この時間の陽は壁や天井を赤く照らし出すだけだ。その円周に沿い、両側から上る狭い階段があって、交差点が踊り場になり、そこから更に上に続く。
広間の左右から伸びる通路を埋めるように騎士たちが並び、来客たちが広間の中央に立つと、彼らの背後も騎士たちが塞いだ。
階段を降りてくる数名の足音が聞こえ、最初に踊り場に立ったのは、金銀の刺繍のついた衣服を纏う男だった。
「ようこそ。お待ちしていましたよ」
ヴェズリーはジェードにそうしたように、恭しい礼を彼らにしてみせる。遅れて、二人の騎士に両脇を固められたジェードが、彼の斜め後ろに立った。
「あんたが王都騎士団の大将かい?」
前に出て話すのはルドルフである。その後ろではシナンとセストがエイリーンを挟み、彼女に剣を突きつけている。その他の四名はその更に後ろに隠れるようにして、ヴェズリーを睨み上げていた。
「お初にお目にかかる。俺はこの傭兵団の団長、ルドルフだ」
彼に対し、敵意を露わにしたのはジェードだった。
「貴様ら、娘を――!」
「おっと、まずは話を聞いてくれよ」
息を合わせ、エイリーンに剣の切っ先が近付く。ジェードは歯噛みしながらも、ルドルフの指示を聞いた。
「元々は、こっちの騎士がお嬢さんを連れて逃げてたのを、俺たちが捕まえたのさ。そんで、彼女を人質にすれば、王都騎士団を強請れるって聞いて、その役を譲ってもらうことにしたんだよ」
エイリーンは項垂れているが、勿論これは演技だ。シナンも人の命を金づるにする悪党を装わなければならず、何もしなくても冷酷そうに見える隣の人間が羨ましいなどと場違いなことを考えていた。
「とりあえず、このお嬢さんの身柄は幾らくらいだ?」
ヴェズリーは興味深そうに一行を見下ろしている。その傍らでジェードはじたばたと、前に出ようとして騎士に抑えられた。
「何をされている!?金なら幾らでもあるだろう、早く娘を!」
苛立って叫ぶジェードに、ヴェズリーは意味深な一瞥をくれて、またエイリーンたちに視線を戻す。
「答える義務はありませんね」
「おいおい。じゃあこのまま連れてってもかまわねえのか?」
「いいえ。ここで返していただきます」
その一言を聞くと、周囲で構えていた王都の騎士たちは、徐に剣を抜き始める。カムリやトライス、アルクェイドも剣の柄に手をかけるが、シナンに無言の制止を受けた。
「……やれやれ。俺たちゃ平和的解決が信条なんだがなぁ」
「もう諦めろ、この悪党どもが!エイリーン!」
騎士たちはジェードを、踊り場の手摺りに押しつける。彼は苦しそうな様子も無く、ひたすら、身を乗り出して娘に呼びかけた。
「そっちがそういう態度ならしょうがねえ。金にならない荷物は持たない主義なんだ」
ルドルフが合図をすると、セストの剣がエイリーンの首の上まで持ち上げられる。
「ヴェズリー殿!早く攻撃を!」
「落ち着いてください。エイリーン様は無事ですよ」
必死の形相で訴えるジェードに、何か微笑ましいものでも見ているような顔でヴェズリーは言って、顎でシナンたちを示してみせる。
「あれは嘘です。エイリーン殿が依頼して、茶番を演じているのですよ」
その言葉に対するジェードの反応と同じくらい、ルドルフもぽかんとした顔をしてみせると、大げさにかぶりを振り、またヴェズリーを見上げた。
「……こんなに早くバレるとは。俺の演技もまだまだだな」
「エイリーン!それは本当か!?」
ルドルフの目配せで、シナンとセストは一旦、剣を鞘にしまう。
ようやく父に顔を見せたエイリーンは、その眼差しによって、彼の問いに答えたようだった。
「馬鹿げたことをするな!さっさと砦に戻って――」
「馬鹿げたことですって?」
思わず、ルドルフたちも肩を震わせたほどの気迫が、彼女の声には宿っていた。
「馬鹿もお父様ほどではありませんわ。いつまでこんなことを続ける気ですか!」
「なっ……!」
彼女はずいずいと、ルドルフよりも前に進み出ると、更に間近で二人を睨みつける。
「言わないと分からないなら、言わせていただきます。これはお母様が愛した全てのものを踏みにじる行為。それをやめると言うまで、一歩たりと引くつもりはありません!」
「……私も分かっている!今行なわれていることは、ロゼットへの裏切りかもしれない、だが――」
「なら、どうして!?」
上に立っているはずのジェードは、エイリーンの怒りに完全に押されている。しかし、彼女の感情を高ぶらせるのは、それだけではないのだ。
「あの時も……答えていただけませんでした。どうして、こんなことを許されるのですか?」
悔しさ、情けなさ、悲しみ。彼女の気持ちは殊、アルクェイドにとって、察するに尚余りある。
「……。」
ジェードの顔が、初めて苦悶に歪む。空白を生むまいとするかのように、ヴェズリーが口を挟んだ。
「エイリーン様が心配だったのでしょう?」
それにも、ジェードは何も返さなかった。エイリーンは眉を顰め、再び父に問いかける。
「お父様、答えてください。何故ですか?」
彼は長い沈黙の後、ようやく意を決したようだった――否、観念した、という方が適切かもしれない。ジェードの声は低く、翳り、この空間にいる何もかもを突き放すように響く。 「……お前には分からないだろう。ロゼットを喪った、私の心は」
傍で見ていたルドルフにも、エイリーンがその言葉に傷ついたのを感じ取れた。彼女は崩れそうな声を何とか、彼に届けようとする。
「……私が、悲しんでいないというのですか?」
「お前は私よりずっと早く……ロゼットの死を振り切った。だが、私はそうではない」
一方で、日向の雪が溶け出すように、ジェードの心の内も少しずつ、エイリーンの元に零れていく。
「私はもう、何も失いたくないのだ。エンドルも、お前も、大切なものを、何も……」
「……お父様?私はここに……」
エイリーンは言いかけて、何かに気付き、音がするほど息を呑んだ。
ジェードは、十日以上は引き離され、閉じ込められていた娘の姿を見て、まず最初にルドルフへの敵意を露わにした。しかも、ヴェズリーにその救出を任せようとまでしていた。普通は考えないはずだ。娘を奪い、人質に取った人間に、娘を助けさせようなどと。
「……だから、言ったでしょう。ジェード様はあなたが心配なのです」
ヴェズリーはぽんと、ジェードの肩を叩くと、エイリーンに告げた。
「あなたを砦に軟禁したのは、ジェード様の指示ですよ」
「そんな――」
「それどころか、エンドル騎士団を遠ざけたのも、私ではありません」
エイリーンは愕然とし、よろよろと後ずさる。それにはシナンたちも、驚きを隠せなかった。エンドル騎士団も、王都騎士団のトライスも、エンドルの騎士たちは「追い出された」のだと口を揃えていた。
しかし、実際は。
「……だのに、まるで我々が無理矢理追い出したかのように。エンドル領主の命だと伝えたはずなんですがねえ。都合の悪いことが聞こえないのは、誰だってそうですが」
ジェードがそれに異を唱える様子は無く、萎れた草木のように、床を見つめている。
立ち尽くすエイリーンが声を失い、ただ唇を震わせていると、彼女の後ろから割り込んだ者がいた。
「ふざけるな!」
一同が振り返る。そこではアルクェイドが、外套を外して露わになった面立ちを怒りに染めていた。
「あなたは!彼女がどんな思いで砦にいたか……自分の無力をどれほど嘆いていたか、苦しんでいたか、想像出来ないのですか!」
「……。」
「彼女があなたの心を分からないと言うなら、あなただって――彼女の心を何とも思っていなかったんじゃないか!」
「うるさい!」
その時、ジェードがこの場で初めて、声を荒げた。アルクェイドを睨む顔は強張り、震えている。
「……ここにエイリーンを置いておけば、必ず危険な行動に出ると思った。彼らの怒りを買うような行動にな。そうなれば、もっと手痛い仕打ちを受けたはずだ。私はそれから娘を遠ざけたまでだ」
「ですが、失敗でしたね。別々の場所にいたからこそ、こんな面倒な事態になった。あなたの監視下にあった方が、目的は果たせたでしょうね」
ヴェズリーの暢気な合いの手も、乱れた残響に混じって消えていく。やがてジェードはその表情を僅かに緩めると、ぽつりと呟いた。
「……この領の行く末に、私はもはや、希望を見いだせないのだ。今のエンドルはロゼットが作ったようなものだ。だが、ロゼットはもう帰ってこない。あの日々には、もう二度と戻れない」
「……。」
「太陽の昇らない土地に、新たな花は咲かぬ。ならば今咲いている花を、どんな手を使っても守るしか……それしか私には考えが無い」
咳払いすら憚られるような静寂の中、やはり彼はロランと同じだ、と、シナンは思っていた。今のジェードには、少し先のことすら、考えて選ぶ力も残されていないのだ。心はずっと、妻を失った時点に縛り付けられていて、自分の周りが少しずつ過去になり、朽ちていくことだけを恐れている。
「……残念ですわ」
ようやく取り戻されたエイリーンの声は凪ぎ、真っ直ぐに、ジェードへ向けられる。
「私は、お母様の後を継ぐため、懸命に努力してきたつもりでした。けれど、お父様は……私を信じてくださらないのですね。」
「当たり前だ!」
その返事は、聞いていたアルクェイドの怒りに再び火をつけたが、今度こそシナンが肩を掴んで引き留めた。
「お前が、ロゼットと同じ道を辿って……同じように私の前から消える夢を何度も見た!エンドルの民は、お前が何もしなくとも上手くやれる!私たちはロゼットが愛したこの土地を、守れさえすればそれでいいんだ!」
ジェードの叫びはきっと、偽らぬ彼の本心なのだろう。だがどこかから、もう一つの声が聞こえるような気がしてならなかった。
こうするしかない。仕方が無い。失いたくない。それが叶うなら、何も要らない。
だとしても――そのために無実の人々を殺すことに加担するなんて、間違っている。アルクェイドの心の内はそれだけだった。しかし、家族の声すら届かない人間に、見も知らぬ者の言葉など、きっと聞こえない。
長い沈黙の後、エイリーンは肩を落とす。
「……分かりました。お父様の考えは、変えられないのですね」
勝利を確信したのか、ヴェズリーがほくそ笑む。顔を上げたエイリーンは初めて、彼に向かって話しかけた。
「私は砦に戻ります。もう二度と、このようなことは致しません」
「おい、そんな……!」
成り行きを見守っていたルドルフが彼女を止めようとするが、エイリーンの目は、何も映そうとはしない。
「ですから、この方たちだけは……見逃してください。どうか、お願いします」
「ええ、いいですよ。勿論ですとも」
ヴェズリーは肩を揺らしながら答えたが、何かを思い出した風に続けた。
「ああ、それと、ついでに……エンドルの騎士たちにも、戻るように言っていただきましょうか」
「……。」
「どうせ呼んでいるのでしょう?」
ルドルフが舌打ちする。エイリーンは拳を握り締め、震える声で、はい、と返事をした。
「そんな……!」
シナンに抑えられたままのアルクェイドが、たまらず声を上げる。
「考え直してください!こんなこと、続けさせていいはずがない!」
他の者たちは全員、押し黙ったままだ。しかし、彼の言葉を止める者もまた、誰一人といなかった。
「あなたまで諦めたら、この領を――あなたのお母様が築いた誇りを、誰が継ぐのですか!?」
それにジェードがぴくりと動いたのは、誰の目にも留まらなかった。エイリーンは後ろを振り返ると、悲しげな目で一つ、頷いた。
アルクェイドはそれ以上、言葉が出なくなってしまう。
「……ですが、それならもう一つ、お願いをさせてください」
向き直ったエイリーンは、ヴェズリーとの話を続ける。
「うん?」
「お父様に、別れの挨拶を」
ヴェズリーは余裕に満ちた笑顔で、うんうんと首肯して、階段を上ってくるよう促した。長い裾をたくし上げながら、エイリーンは壁をらせん状に這う階段を上っていく。すると踊り場に辿り着いた瞬間、ヴェズリーが止まるように指示して、その数歩前に立った。