「隠しているものを渡してもらいましょう」
エイリーンはその場に固まって、ひどく悔しそうな顔を見せた。そして、衣服の側面に目立たないようあしらわれた衣嚢に手を差し、小ぶりな短剣を取り出す。
ヴェズリーの方に投げ捨てられ、床で虚しく回転した短剣を、ヴェズリーは満足げに拾い上げる。その様子をジェードが、今も手摺りに押しつけられたままで見つめていた。
「……お望みのものは、とうに完成したのでしょうね」
エイリーンは静かに、そう語りかける。
「ああ、まだ試作品ですがね。本当に優秀ですよ、エンドルの薬師たちは」
悪びれもせず答えるヴェズリーに、彼女が返したのは、笑顔だった。その反応にヴェズリーは、微かに表情を曇らせる。
「ええ。エンドルの薬師たちはみな、母の教え子でしたから。優秀でないわけがありませんわ」
「……。」
「それに――」
彼女の手の中には、もう一つ、何かが隠されているようである。
「作ったことが全くないわけではありませんもの」
ヴェズリーが調合室で受け取ったのと同じ、茶色い小瓶。仮面のようににやにやしていた彼の顔が、凍り付いた。
「……ま、また悪いご冗談を」
「これは私が調合したものです。……いざという時、自らの手で始末を付けるために。薬師たちはその記録に従って、さも初めてであるかのように作って渡しただけですわ」
「いやいや!彼らは信条に反するものは作らないと、確かにこの耳で聞きましたぞ!下手なはったりなど……」
優位を保とうとする必死の反論も虚しく、エイリーンの表情は、今度こそ揺らがない。
「勘違いしているようですね。薬はどれも、薄めた毒ですわ。薬師たちは飽くまで、殺すために作ったことがないだけ」
只ならない空気に、シナンたちも口を挟むことが出来ず、王都の騎士たちにさえ動揺が生まれていた。
「原料はカネカズラの花、アオブシの根、エキオリナの新芽……あなたが持っているのと全く同じもののはずです」
小瓶を握る彼女の手は震えている。やめろ、と叫ぼうとしたジェードを、騎士はまた抑えつけた。
「よく考えてくだされ、早まったご決断は――」
「これ以上、考えることなど何もありません」
その頬に涙が伝い、瓶の栓に手がかけられる。
「母の想いが穢されていくのを、見ていることしか出来ないのなら……私は……!」
「エイリーン!」
ジェードの気迫に押されるようにして、ヴェズリーがその場を駆け出した。エイリーンは栓を抜いて放り捨てると、その瓶の中身を一息に呷ろうと顔を上げる。
今更動いたところで、シナンたちも周囲の騎士たちも追いつけない。彼女の悲痛な決意を、誰もが見届けるしか出来なかった。
「ぐわあぁっ!?」
だが次の瞬間、彼らが耳にしたのはヴェズリーの悲鳴だった。
エイリーンが小瓶の中身を、彼の顔に向かって浴びせかけたのだ。
ヴェズリーは目元を抑えてよろめき、階段を踏み外して転がり落ちていく。踊り場にいた騎士の一人が彼を追い、エイリーンは何事も無かったようにそれをやり過ごした。もう一人の騎士も咄嗟に場を離れ、支えを失ったジェードは、手摺りに背を預けるようにして、その場にへたり込んでしまう。
「お父様!」
騎士は近付いてくるエイリーンの進路を塞ぎ立ちはだかる。戦う力を持たない彼女は、それでも尚、前に進むことを諦めはしない。
後ろ姿の向こうで、娘はこちらに手を伸ばしている。草花を摘み、その色に染まった指先。

彼女の付けていた手袋も、同じような色をしていた。

城の背後を守る山からも残雪は殆ど消え、代わりに木々の幹や枝先が、日を追って色づき始めていた。長かった月の季を終え、陽光は本来の明るさを取り戻しつつあるものの、風に香りと温もりを与えるには、まだ少し弱い。
だが彼女は、窓は開けておいて、と言った。この大地の息吹を感じられるから、と。
すっかり細くなった手首を、娘は泣きじゃくりながら握っていた。それは彼女を安らかに眠らせるためではなく、まだ逝ってほしくない、そんな我が儘だったのだろう。娘の柔らかな頬を掠めるように撫でながら、ロゼットはその時もまだ、笑っていた。紅い花のような輝きは失われて久しかったが、それは間違いなく、勝ち気で、情熱的で、エンドルの全てを愛した女性のものだ。
「……エイリーン。」
ともすれば風に攫われていきそうなその声を、娘は敏感に聞き取って、顔を上げる。
「……昨日の約束、どうか忘れないでね。私の代わりに……お父様を、助けてあげて。」
その前の日、娘が彼女と二人きりで話しているのを、部屋の外から聞いていた。嫌だ。どうして。幼い子供のように駄々をこねる娘の声を。
今日、娘は何も言わなかった。ロゼットの言葉に何度も、何度も頷いて、冷たい手をしっかりと包んでいた。娘に比べて、自分の心の、何と頼りないことだろう。この期に及んで、まだこの光景が悪い夢だと、信じてたまるものかと喚いている。
その隣に膝をつき、左に娘の肩を、右には妻の肩を抱いた。消えゆく魂を、どうにか繋ぎ止めようとして。二人の涙は滔々と流れ落ちて、妻の頬と指を伝う。嗚咽を殺す自分と娘の間で、ロゼットだけが、いつものように笑っていた。

(ああ、私ったら――)

その後に続いた、彼女の最期の言葉を、ずっと認められなかった。

(あなたの妻になれて、本当に幸せ者だわ。)

「!」
騎士が短い呻きと共に、前のめりに倒れる。
思わず一歩後ずさったエイリーンだが、その若草色の瞳は、みるみると輝きを取り戻した。差し出されたままだった手が、その時ようやく掴まれ、引き寄せられる。
右手に剣を携えた、エンドル領主ジェード=ディクトルが、そこにいた。
「何をしている!これ以上の勝手を許すな!」
ヴェズリーの声が響くより一足早く、アルクェイドやカムリたちを先頭にして、一行が逆方向から階段を駆け上がる。遅れて、王都の騎士たちが階段に流れ込んで、物量でシナンたちを押し流そうとする。
「俺は領主様を援護する!カムリ!トライス!姫様を守れ!」
セストが振り返りざまに放った最初で最後の矢が、先頭にいた騎士の足下を捉え、彼は障害物となって階段を転がり落ちていく。
踊り場の入り口で武器を持ち替え、シナンも剣を抜いた。
「防げるか?」
「……厳しいかもな」
反対側ではジュノの矢が、同じように先頭の足下をすくった。踊り場の奥に避難したエイリーンをトライス、カムリ、アルクェイドが守り、ジェードの隣にルドルフが参じる。
「どりゃ!」
めげずに這い上がってきた騎士を叩き落とすと、それに気を取られた一人も、ジェードに突かれて足の踏み場を失う。
果敢に壁を破ろうとする王都の騎士たちだが、何分この状況では、数の有利を生かすことができない。結局一対一を続けるほかなく、通路を埋めては自分たちの首を絞めるので、相手にも休息時間を与えることになる。
「おっと」
怒号と共に振り下ろされた剣を、シナンは気の抜けた顔で受け止め、押し離した後突き返して退場させる。そういえば、最後にまともに戦ったのはあのレベリオだった。彼の怪力に比べれば、大抵の攻撃は軽い。
「駄目です、あれじゃエンドル領主は取り戻せませんよ!」
ヴェズリーを介助しつつ、ひっそりと大広間を離れていた騎士が叫ぶ。
「そんなことはどうでもいい!早く水場に連れていかんか!」
だが瞼を閉め切るのに必死な彼には、もはやどうでもいいことのようだった。呆れた風に息をつきつつ、騎士は井戸のある中庭へと向かう。
「ちっ、諦めの悪い」
階段の障害物を次々と増やしつつも、辟易したルドルフが吐き捨て、再び剣を構えた。
「……あれは!」
その時、カムリの声が耳に届いたと思うと、遅れて地響きのような足音が近付いているのに気付く。それは一行には希望を、王都騎士団には諦めをもたらして、洪水のように大広間に現れた。
「そこまでだ!観念しろ、不届き者ども!」
中央に立った男性が叫べば、王都騎士団は何も言われずとも武器を捨て、やって来た集団に片っ端から、階段を引きずり下ろされていく。
エイリーンが手摺りに駆け寄って見下ろすと、その隣にはシレニアの姿もある。彼女はエイリーンに気付くと、心底から安堵した風に肩を下ろした。
皆が武器を収めていく中、最後まで剣を手に立っていたのはジェードである。
彼は王都の騎士たちを次々と外へ運び出していく、エンドル騎士団の姿を、じっと眺めていた。この領を守るためだと言って城から追い出した彼らの、怒りと喜びの入り乱れた歓声を。
「……私は……」
声をかける者はいない。その必要は、もうないと思ったからだ。
「……私は……何を、見ていたのだろう?」
呆然と呟いた彼の背中を、優しく叩いた手がある。
振り返れば、そこにあるのは生き写しのような髪と、瞳と、白い肌。しかし今回のことを思うと、彼女はロゼットよりも、もっと頑固なように思える。多分、それは自分のせいかもしれない。
彼女の見ていた世界は、永遠に失われたのだと思っていた。娘は自分より早く、それが間違いであることに気付いていただけだ。
剣を収めたジェードは、魂を、住む世界を分かち合ったその存在を、両腕の中に抱き締めた。
「……すまなかった」
エイリーンはその胸に顔を埋め、ただただ強く、ジェードを抱き締め返していた。

水場で顔を一心不乱に洗っていたヴェズリーの元にもエンドルの騎士が訪れると、彼に付き添っていた王都の騎士ともども拘束した。
「ま、待て!毒を浴びたんだ、解毒剤はないのか!」
騎士たちに引きずられながら、目を見開いて騒ぐヴェズリーは、いつの間にかそこに立っていたエイリーンに縋るような眼差しを向ける。
「……お、お願いだ、解毒を……」
すると彼女は穏やかな笑顔で、それに答えた。
「必要ありませんわ。だってただの水ですもの」
「……は……!?」
「あら、本当に毒だと思われたのですか?」
愕然としているのはヴェズリーだが、その反応が信じられないという様子で、エイリーンは瞬きする。
「本物なら、今頃とっくに失明されていますわ」
「だ……騙したのか……」
「何とでもどうぞ」
優雅に一礼する彼女をヴェズリーは最後まで睨んでいたが、結局これといった捨て台詞も吐くことが出来ないまま、連行されたのだった。
王都の騎士たちは、ケガをした者があれば薬師たちに手当てを受け、そのまま城を放り出されて、すごすごと王都に帰って行った。
シナンたちはエイリーンとジェード、エンドルの騎士からも礼を受け、城に泊まるよう勧められた。どのみち、一度はこれからの方針を話さねばならなかったところだ。夜には宴会のような豪華な夕食が準備され、特にカムリやジュノなどは、子供のように目を輝かせていた。
その余韻も冷めないうちに、客室に戻ったアルクェイドは、寝台に寝転がって、首飾りを見つめていた。その面立ちを明るくするのは、エンドルを解放したことへの安堵も勿論あるが、決してそれだけではない。
親善訪問を決めた時もそうだったが、時折自分でも驚くような大きな声が出ることがある。勝手なことを言いました、と、あの後で彼はジェードに謝った。
ジェードは、謝るのは私の方だ、と返した。君の言葉は何一つ、間違ってはいなかった、それをすぐ認められなかったのは私の弱さだと。
扉が叩かれて、体を起こす。シナンの声だった。入ってきた彼の顔は、酒のせいなのか、人気にあてられたのか、少し赤らんで見える。
「今日の戦いで、命を落とした者はいなかったそうだ」
扉を閉めて一言目にそう言われ、アルクェイドは笑顔を見せる。シナンは長話をするつもりはないらしく、そこに立ったままで話を続けた。
「まだ、明日からの話をするのは早いか?」
「……いえ」
エイリーンから話を聞いたばかりの時は、動揺を鎮めるのに精一杯だった。傍からも、ひどく憔悴しているように見えていただろう。だが、ひとまず彼女を救えた今、アルクェイドにも考える余裕が生まれていた。
もしかしたら、彼女の姿に少なからず影響を受けたのかもしれない。戦う力がなくとも諦めず、ジェードに向かって手を伸ばし続けた、あの姿に。
「……昼の間は、どうしてこんなことになっているのか……それで頭がいっぱいになっていて。でも、その後で、一つ思い出したことがあるんです」
アルクェイドは自ら立ち上がり、シナンを真っ直ぐに見つめる。
「シナン殿の言っていたこと……もしかしたら、可能かもしれません」


『やあ。久しく会っていないが、君もユーリも元気にしているかね。
 こちらはこの時期のいつも通りだ。今回、こうして手紙を書いたのは、近く何か催したいと思ったからだ。
 結婚から三年になるだろう。何かお互いの領民も参加できるような祭りでも開きたいものだね。
 実は今、うちのシナンがヴェルクの外に出ていてね。もしかしたら世話になるかもしれない。その時は宜しく頼むよ。
 まあ、迷惑なんて掛けないに越したことはないけれどね。』


(「誇りの在処」 了)