一人で悔しさを抱えて悶絶する男を尻目に、セドウィンは地下牢を後にする。
黒衣の男。セドウィンの中にあった埋もれた知識が、アルクェイドや王都騎士団といった釣り針にかかり、記憶の底から持ち上げられる。その存在は、どこにいるのか、何人いるのか、何を目的にしているのか――はたまた実在しているのかさえ、定かではないという。
王国の密偵を一手に抱える、貴族ヘイスティンド家。
地方の騎士として生きる自分には、ついぞ縁の無い話だと思っていた。だが、図らずも王族と関わることになってしまった今、彼らの幻影はヴェルク騎士たちの上にもちらついている。
彼らは常に国中に散らばり、密に連絡を取り合い、まるで複数人が一人であるかのように活動する、神出鬼没の集団だという。既にこの領で彼らが活動していたなら、その手はシナンやアルクェイドのことも、いつでも捕らえられる距離にあるかもしれない。
唯一の助けは、その男がロブレンとの接触を欲していたと分かったことだった。セドウィンはその翌日、ヴェルク北西の中継拠点、シュルナ砦に足を向けた。
「何だ、連絡も無しに。わしが外に出ていたらどうするつもりじゃ」
ここを守るのは、重装の騎士たちから成る第三隊――別名「特攻隊」だ。団の中でも特別血の気の多い騎士たちをまとめるのは、こちらも団の中で特別に偏屈と知られる男、ベルナードである。セドウィンの半分より低い身長でありながら、体格は巨岩のようにがっしりしていて、赤い頭髪、口髭、顎髭は全て伸び放題で、野良犬のようにも見える。
「その時は探しに行けばいいんだ、出る場所なんて高が知れているだろう」
かつてはセドウィン、ルドルフと共に、今のシナンたちのようにヴェルク騎士団の軸を担っていた。という言い方をするとベルナードは、年寄り扱いするなと怒る。
彼は地鳴りのような掛け声のする訓練場にセドウィンを連れて行き、その音に負けないくらい大きなしゃがれ声を響かせた。
「ユーゴー!ちょっと顔を貸せ!」
それに反応した騎士たちが一瞬、動きを完全に止めて、静かになる。だが一人がこちらに向かってくるのが見えると、同時に訓練が再開された。
「……何だよ。訓練中だぞ、ジジイ」
その青年は、ぶっきらぼうな挨拶をしてセドウィンを睨む。彼の体格はあのレベリオにも匹敵するかという程で、軽くぶつかるだけでも、大抵の者はなぎ倒されてしまう。
「お前に頼みがあるそうだ、聞いてやってくれ」
「ちっ」
口と態度は悪いが、ユーゴーというこの青年はこれでも、ベルナードの補佐を務めている。彼が親となり、セドウィンが教師となってユーゴーを育てたのだが、その性格だけは変わることが無かった。
「……ユーゴー。気は進まんと思うが――」
「ロブレンにお使いに行けってか?」
即座に台詞を先取りされたセドウィンは、何故分かったのか、という顔を隠せない。頬の古傷を歪ませつつ、ユーゴーは続けた。
「何年やってると思ってんだよ。んな切り出し方の用事なんて、それしかねえだろ」
「それはそうだが……何というか、成長したのか?」
途中からはベルナードに向けていたが、ユーゴーは構わず、大きな息を吐いて強引に話を進める。誰に似たのか、気が短いのである。
「他の奴らに出来ねえから、仕方なく受けてやんだよ。……何だよ、話は」
ヴェルク騎士団は――地方であればここに限った話ではないが――様々な生い立ちの団員を抱えている。生まれも判然としない、異国の血を引く者。かつては王都に身を置いていた者。
そして、かつては盗賊だった者。
「何、そこまで込み入ったことではない。……少し、世間話をしてきて欲しいのだ」


エイリーンたちがキフ砦に到着した直後、エンドルの騎士たちは、他の拠点にいる仲間たちにも、彼女についての伝令を飛ばした。併せて、程なくエンドルの城を取り戻しに向かうということも。
相手は精強な王都騎士団とはいえ、エンドル騎士団の全人数はその倍を優に超える。正面からぶつかっても後れは取らないだろう。ただ、ジェードを相手の手の内に残してしまえば、万が一の事態も起こるかもしれない。
どちらにしろ、全隊が集まるまでは時間もかかる。そこでエイリーンがシナンたちと共に先行し、ヴェズリーと交渉を行う、という話になった。無論、相手がそう簡単にこちらの要求に応じ、ジェードを解放してくれる訳はない。目的は時間稼ぎと、注意を自分たちに引きつけることだ。
「正気ですか!?」
扉を閉めた寝室には、五名の傭兵団とその依頼主、エイリーン、それから騎士団を代表してシレニアが同席している。彼女が素っ頓狂な声を上げると、エイリーンは正反対の冷静な声で答えた。
「正気じゃないわ。こんな状況、正気でいられるもんですか」
「幾らなんでも危険すぎます!それなら少し時間をおいて油断させてから、夜襲でもかけた方が――」
「いいえ、シレニア。目的は城を取り戻すこと。王都の騎士を倒すことではないの」
目配せされたルドルフが、その後を引き継ぐ。
「これは我々の勝手なんですが……やはり王都騎士団から恨みを買うようなことになると、やりづらくなるんでね」
それはアルクェイドの希望を、シナンがもっともらしい理由と共に、ルドルフに伝えたものだ。実際、自分たちが主導した戦いで、王都騎士団に犠牲者を出せば出すほど、追跡は厳しくなる。同時に提案したのは、飽くまでも、これを「討伐」にはしないということだ。ルドルフは快く承諾し、深くは追及しなかった。
「今回、俺たちが協力するのは、奴等を追い出すことです。ついでに全員、ケガの手当も済ませて家に返してやれれば尚良いですが」
「交戦をぎりぎりまで避けて、ジェード様の安全も確保する……ということですか」
「ええ。そうなると、私が出ない訳にはいかないわ」
主にシレニアとエイリーンが度々言い争ったので、会議はその後も紛糾したが、日が傾き始めた頃には何とか形が纏まった。解放と再会の喜びに賑わっていたキフ砦も、来たるべき時に近付き、徐々にひりつく空気を帯び始める。
アルクェイドは外套に隠すようにして、一度も使われたことの無い銀の剣を少し引き抜き、元に戻す。自分も王都にいた時は、毎日の稽古を怠っていなかった。だが、やはりそれだけでは駄目なのだ。ここにいる仲間たちは皆、民の命を守るために、自分の命を敵意の前に曝すことを当たり前にしている。殺す気も無い相手と、形の練習をしていただけの自分とは、経験も覚悟も違うのだから。
シナンはルドルフに付き合ってもらい、息抜きも兼ねた手合わせをしに行った。セストは自分の弓の弦を張り直していて、その様子を自分の武具の手入れがてら、ジュノがじっと眺めている。彼女は彼女で自分の作業に集中しようとはしているが、傍から見ていると、明らかにセストを見ている時間の方が長い。
「……あの」
所在なさげに窓の近くをうろうろしていたカムリは、防具の帯を確認しているトライスに声をかけた。
「どうしました?」
「あ、いや!えっと……あの、もっと気楽な感じで話してください」
「……。」
「……。」
「……こうか?」
「そうです!」
本人たちは至って真剣なので、ますます奇妙な会話に聞こえる。アルクェイドはこっそりと笑いを堪えていた。
「じゃなくて、その……僕、実はまだ、全然かけだしで……」
カムリという人物は楽観的な言動が目立つように見えて、人並み以上に緊張するらしかった。今も話しながら、繰り返し手を握ったり、開いたりしている。
「もしよければ、練習に付き合ってもらえないかな……とか……」
「ああ、もちろん!俺でよければ協力するよ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
快諾を受けたカムリは、寝台から立ち上がったトライスに続き、小躍りするような足取りで部屋を出て行こうとする。
「ま、待ってください!」
アルクェイドはその背中に、無意識に声をかけていた。二人は振り向くが、肝心の続きが用意できておらず、あたふたとしつつ何とか言葉を繋ぐ。
「あの……私も、付き合わせていただけませんか?」
「え?でも君は――」
不思議そうなカムリに近付き、アルクェイドは彼を見上げる。
「……シナン殿に申し出たのです。私も、少しだけ、剣の覚えがあります。せめて自分の身を守るだけでも加わらせてほしいと」
トライスとカムリはしばし顔を見合わせた後、笑顔でアルクェイドに答えた。
「ああ、構わないよ」
「一緒に行こう。あまり時間もないからね」
ぱっと顔を明るくすると、彼は首飾りと自分の剣を寝台に置き、走って二人についていく。
いきなり距離を縮めた彼らの様子を、何故か強張った顔で見送って、ジュノは今度こそと持ち物の整頓に集中した。
「……。」
「……。」
しかし、彼女の頭は二重の緊張に縛られて、ほぼ動きを止めてしまっていた。こんなにも空気が固いと感じたことは初めてだった。その時、目についたのは、出発の朝に勢いで引っ張り出した薬草の袋である。
「ジュノ」
「ひゃいっ!?」
呼ばれて振り返ると、セストがこちらを見ていた。
「……さっきは助かった」
「……は……」
「感覚は分かっただろう。道すがらにでも練習すると良い」
彼はそう伝えて弓を置き、髪を結っている紐を解くと、また結び直す。ジュノは震える手で袋を掴んで立ち上がると、目を活発に泳がせつつ言った。
「わ、私、ちょっと、外に……出てきます!」
返事を聞いたつもりになって部屋を出る彼女は、熱湯にでも浸かったように真っ赤だったが、その原因である当人が気付いた様子は無い。
兄と離ればなれになるのが不安だった。家で、年に数回も無い彼の帰りを待つのがどうしても嫌で、騎士団に志願した。両親にも反対される中でどうにか合格を勝ち取り、兄と同じ隊に配属されると、待っていたのは無表情で、それでいてとんでもなく厳しそうな隊長だった。
なんて怖い人なのだろう、この人にだけは怒られたくない。そんな決意と、度々家に帰るように諭してくる兄を見返すためもあって、ジュノは死に物狂いで練習を積んだ。しかし、周りとは差が開いていくばかりに思えて、焦る気持ちは振る舞いにも表れた。
その日、自分は早朝の廊下で転び、運んでいた矢をばらまいてしまった。
何もうまくいかない、このままでは追い出されてしまう。滲んでくる涙が流れないように堪えながら、一人で後始末をしていると、いつの間にか隣で、誰かが矢を拾っていた。
それがあの恐ろしい隊長だと分かったときには、心臓が止まるかと思った。彼は黙々と矢を集め、それをジュノに手渡すと、レイチェルの妹だな、と言った。
がちがちになりながら、虫の羽音より小さな声でジュノが返事をすると、セストは続けた。
お前は「気が付く」人間だ。
いずれ生かされる時が来る、それまで鍛錬を怠るな、と。
去って行く彼の背中を、ジュノは立ち上がることも出来ずに見つめていた。兄の言う通り、自分は騎士には向かないのだと思っていた。きっと彼も自分のことなど、視界に入れてさえいないだろうと。
だがそうではなかった。彼は自分のことを見ていた。そして、このまま続けろとも言ってくれた。
その日からジュノは、彼が恐ろしくなくなった。それどころか、彼の期待に応えることばかりを、気が付けば考えているようになっていたのだ。


空と雲を朱色に染め上げる太陽は、その下端を地平に接しようとしている。巣に帰る鳥たちが時折、草の波の上を渡っていくのを、ヴェズリーは書斎から眺めていた。
城を占拠している王都騎士団は五百人ほどである。決して多い人数ではないが、そのためにまず話し合いで城を抑え、地の利を得ることにしたのだ。
何より、領主が「こちら側に」いることが大きい。今のところ、彼は自分の城で行われていることに、反抗する様子も無い。あらゆる分はこちらにあり、たとえ急襲を受けたとしても、ひとまず凌いで次の行動に出るには充分だった。
扉が叩かれ、騎士の一人が入ってくる。待ちに待った報せだ。ヴェズリーは返事も軽く、揚々と書斎を出た。