−W 誇りの在処−



(ああ、私ったら――)

「――――!」
扉を叩くけたたましい音で、ジェードはいつの間にか眠っていたことに気付いた。顔を擦れば目は開くが、心の方は、すぐには現実に戻ってこない。
夢を見ていた。妻との、別れの日のことだ。
ロゼットの体調が悪くなったのは、突然のことではなかった。しかし、病の進行はあまりにも緩やかで、周囲の誰もが、彼女の不調を疲れのせいだと思い込んでいたのだ。
実際、休めば幾らかは具合が良くなったことも、偽装を手伝った。ロゼットが城の廊下で倒れてようやく、それが疲労によるものではないと分かったのだが、時は既に遅かった。エンドル中の薬師たちが知恵を絞っても、彼女から死の影を祓うことは出来なかった。
エンドルの全てを我が子のように愛した彼女の、皮肉な――あまりに皮肉な最期だった。あの日、エンドルの民も、大地すらも悲しみに暮れ、この領の歴史の中で最も大きな葬儀が執り行われた。太陽は分厚い雲に隠されたまま沈み、どこまでも深く、冷たい夜が訪れた。
それからずっと、ジェードの世界には朝が来ないままだった。
彼にとってこの領地は、生まれた場所であり、自分が治めていくよう決められた場所、それだけのものに過ぎなかった。自分が生きている間も、死んだ後も、民がこれまで通り、何事もない日々を暮らしていけるようにすること。ロゼットが現れるまで、彼はそれが、自分の使命だと思っていた。
昨日のことのように憶えている。彼女と初めて出会った日。自分の中で当たり前になっていたその考えを、彼女はいきなり揺さぶったのだ。
(領主様は、このエンドルのことをどう思っておられますか?)
ジェードは答えられなかった。そうと言って彼女は、ジェードを非難するでもなく、軽蔑するでもなく、続けてこの領地がどれほど素晴らしいものを持っているかを、流れるように語って聞かせた。同じ場所に住んでいるはずなのに、彼女の見ているエンドルは、ジェードの目に映るよりずっと豊かで、輝きに満ちているのだと知った。そして、彼女と共に時を過ごすようになると、その世界が少しずつ、自分にも見えてくるようになった。
彼女が自分の妻となり、また血を分けた娘をこの世に産んだ時、ジェードの胸には、今まで感じたことのなかった高鳴りがあった。幸福などという言葉ではとても足りなかった。その前では月の無い闇夜ですら、心穏やかな眠りをもたらし、雷鳴轟く嵐ですら、新たなものの訪れを告げる吉兆であった。恐ろしいものなど何処にもないと思っていた。彼女の死が、避けられないものと知るまでは。
その瞬間、調合室の香り、可憐な花々の色彩、領民たちの明るい笑い声、何もかもが消えた。そこはジェードが生まれ、生まれたが故に守ることを運命づけられただけの、あのエンドルだった。
彼女が隣にいたから見えていた、あの希望に溢れた世界は、間もなく触れられなくなってしまう。考えたくもなかった。そんな時が訪れるのなら、夜など明けないままで良いと思った。だが無情にも日々は過ぎ、ロゼットの肌は徐々に白く、腕は細くなっていった。
もっと、彼女を思いやれていたなら。もっと感謝を示せていたなら。領主が自分などでなかったのなら――彼女の願いをずっと多く、叶えられただろうか。
二人きりで過ごしたある一日、ジェードは彼女の体を抱き締めて、声を上げて泣いた。ロゼットがこの世を去ったのは、その数日後だった。
葬儀が終わった後、ジェードは二度と泣かなかった。否、泣けなかったのだ。涙が枯れるということは、本当にあるのだと知った。香りのない空気を吸い、味のない料理を食べ、叶わない夢を見ながら、何事もない日々を送った。
そんな自分を置いて、妻に瓜二つの娘は、ロゼットのしていた仕事に少しずつ、手を付けるようになった。彼女は、この何もない世界を支える、唯一の柱だった。
娘は言った。一緒に母様との約束を果たしましょう、と。
しかし自分は、その手を取ってやることが出来なかった。もう少し時間が欲しい、と答えて、今もそのままだ。
その時に娘が見せた、憐れみの表情。ああ、自分はとうとう、娘にすら何も与えられなくなってしまったのだ。不甲斐なさは次第に、娘を失う悪夢に変わっていった。エイリーンまでいなくなったら、自分は今度こそ、完全に盲目になってしまう。
(どうして!)
耳に残っている、エイリーンの叫び。
(約束はどうなるのですか!?どうしてなのですか、父様!)
ロゼットに似て強い彼女には、分からないだろう。太陽がある日突然、昇らなくなる絶望も。その絶望が形を変えて、また現れるかもしれない恐怖も。
だから、仕方が無い。
「……すまない。入ってくれ」
「失礼します」
ようやく頭が動くようになってきて返事をすれば、入ってきたのはヴェズリーだった。彼は恭しく一礼して、不気味な笑みを浮かべる。
「おや、お休みでしたかな」
「いや、いい。何の用だ」
彼は扉の前に立ったままで、ほんの少しだけ真面目な顔になると、答えた。
「……エイリーン様が、砦から連れ去られたと連絡がありました」
「何だと!?」
「先程、様子を見に行った騎士が戻って来まして。何でも裏切り者と、通りすがりの傭兵団の仕業だとか――」
それを聞いてジェードは、手を机に叩きつけて立ち上がり、凄まじい剣幕でヴェズリーに詰め寄る。
「どういうことだ、ヴェズリー殿!王都騎士団の守りは絶対だという話だったではないか!」
「ま、まあまあ、落ち着いてくだされ。何にしろ彼らは、近いうちにこちらに来るはずですよ」
そんなジェードを両手で宥めつつ、ヴェズリーは再び、場違いな程に明るい笑みを浮かべた。
「それに、この領地から何かを奪うことは誰にも出来ませんよ。エンドルはあなたのものなのですから」


「ああ、良かった。皆、無事だったのね!」
モリス率いる王都騎士団の一隊を壊滅させたのは、キフ砦の前で陣を組んでいたエンドル騎士団だった。シナンたち一行はそのうちの一人、白金色の髪をした女性騎士に先導され、砦まで案内された。
「でも、どうして砦の前に……偶然、演習の最中だったとでも言うの?」
大きさから見て、キフ砦は末端拠点のようだ。ここに、あの部隊を上回る人数は常駐できないだろう。エイリーンが訊くと彼女は足を止め、皆に顔を向けて答えた。
「実は、我々はエイリーン様を奪還しようと、今日この砦に集まっていたのです」
「何ですって?」
「しかし、近くの村へ巡回に向かっていた騎士から、エイリーン様の姿を見たという報告があり……」
一行は互いの顔を見合わせた。そんな人物がいたことには誰も気付いていなかったらしい。
「砦から逃げ出したのであれば、きっと王都騎士団も探しに来るだろうと。念のため待ち伏せていました」
それを聞いたエイリーンは、途端に目を三角にして高い声を出した。
「何かあったらどうするつもりだったの!?あなたはいつも、変な所で短気なんだから!」
「そうでもしないと、おかしくなりそうだったんですよ!いや、もうおかしくなっていました。皆、王都の騎士を一発殴らないと気が済まないって――」
エイリーンに似た長い髪と流麗な佇まいには多少似つかわしくない台詞に、シナンたちが目をしばたいていると、二人は同時にはっとして、落ち着きを取り戻した。
「す、すみません。そういえば、ご紹介もまだでしたね」
促され、女性騎士は一礼する。
「エンドル騎士団領主親衛隊長、シレニアと申します。エイリーン様を助けてくださったこと、私からも感謝を」
「親衛隊長……?」
地方の騎士団では聞き慣れない肩書きである。シナンの反応に、エイリーンは困った笑顔を浮かべた。
「父が作ったんです。私の身を守らせるのに……普通、わざわざそんな隊、作らないですよね」
「まあ、ジェード様のお気持ちは分かります。誰かが見ていないと、どこにでも入っていきますから」
「人を猫みたいに言わないでくれるかしら」
「……姉妹みたいだな、何か」
ルドルフが呟くと、エイリーンは続いて、シナンたちをシレニアに示した。
「ご紹介するわね。こちらがトライス様。王都の騎士だったのだけれど、一人で私を連れ出してくれたの」
まだ、様と付けられるのに慣れていないらしく、むず痒そうな顔のトライスが頭を下げる。
「それから、追われていたところを助けていただいたのが、こちらの傭兵団の皆様」
「どうも」
ルドルフを最初に、アルクェイドも含めて全員が礼をする。シレニアもそれに返したが、僅かに首を傾げた。
「……傭兵団……?」
「ええ、そうよ。お知り合い?」
「……いえ、気のせいです」
彼女は広間の横から続く階段に足を向けつつ、また笑顔を見せる。
「では、こちらへ。窮屈な部屋しかありませんが、どうぞ休まれてください」
「甘えさせてもらうよ。にしても、きれいな砦だな、ここは」
ルドルフが首をぐるりと巡らして、感心した風に言った。ヴェルクにあるショーレ砦よりも尚小さいくらいに見えるが、天井の蜘蛛の巣、床の土埃、あの砦にはあるものが、ここには何も見当たらない。まさに塵一つない、という表現が的確である。
「ああ、これは……」
応じるシレニアの声は、どこか気まずそうだった。
「ここに閉じ込められた怒りを、掃除にぶつけていただけで……いい加減にきれいにする場所もなくなった所だったんです」
「そんな理由で計画を決めたんじゃないでしょうね?」
その問いかけには沈黙を返されて、エイリーンは軽くない溜息をついた。


ロブレン盗賊団のレベリオがヴェルク城に訪れた日、セスト率いる弓騎士隊は、ある小さなならず者集団の討伐に出ていた。その数日前、森で不審な人物を見たという通報が、近くの砦に寄せられたのだ。
弓騎士隊は難なく彼らの拠点を制圧し、盗賊たちの持っていたものも回収した――大半はロブレンの根城から、無断で持ち出したものだったようだが。
その後処理を部下に任せ、一足早く帰ってきたセストに、セドウィンは気がかりな報告を受けた。彼らを討伐するきっかけとなった、最初の通報についてである。
弓騎士隊は討伐作戦を開始する前、通報のあった砦に赴いて、詳細を確認した。この森から最も近い、キクロス村からの報せで正しいかと訊ねると、そうです、と答えられた。しかし、村の何をしている人間だったかと訊ねると、彼らは顔を見合わせ、不明です、と言った。
普通、砦にやって来る民は、自分の職業が何かをいちいち伝えはしない。しかし村が襲われているなどの緊急事態でない限り、彼らが砦に立ち寄るのは、大抵仕事中や仕事の帰りで、道具を持ったままなのだ。それを見れば狩人なのか、或いは町に出ていた農民なのか、そんなことは聞かずとも分かる。
そのやりとりを知ったセストは違和感を覚え、隊員の一人をキクロス村に向かわせて、村人に聞き込みを行わせた。すると、この村にはもっと近い猟場があるので、そんな遠い森まで足を運ぶ人間はいないという答えが、全員から返ってきたのだという。
討伐が行われている間、弓騎士隊は別の村にも、同じ調査をして回った。だがそもそも他の村は、キクロス村より更に森から離れていたし、案の定砦に来た人間も、全く特定出来なかった。
セドウィンはシナンたちの出発後、城の地下牢に入れられているそのならず者たちに、話を聞きに行った。まず、森で領民と鉢合わせたことはあるか、と。
頭領だった男はすっかりしょぼくれ、覇気を無くしていて、セドウィンの問いに至極面倒そうに答えた。
「……ああ?ねえよ、そんなこと。わざわざ人気のねえところを選んだんだからよ」
次に、セドウィンは質問を変え、では誰かが会いに来たことはあったか、と訊ねた。
男は欠伸を一つすると、先程よりもっと面倒くさそうに口を開く。
「一回、あった」
曰く、体を黒い外套に包んだその男は、自分をロブレン盗賊団の一味だと思ってやって来た。そして、頭領のレベリオに取り次いでほしい、と言った。既に袂を分かった彼らの子分扱いをされたので癪には障ったが、手土産にそれなりの額の金貨をもらっていたので、あいつらとは関係ねえ、失せろ、と言うに留めたらしい。
そこまで話してようやく、頭領だった男は気付いたようだった。
「……そうか、まさかあいつが……!」