アルクェイドはしばらく、静かに肩を震わせていたが、やがてすすり上げる回数も減り、ずっと隠されていた宝石の輝きも姿を見せた。 「……本題に入ろう」 シナンは立ち上がりながら、頬を赤くしている彼に声をかけた。 「エンドルを王都騎士団から解放するかどうか、君の想いを聞きたい」 アルクェイドは目の端に残った水滴を袖に吸わせ、ひとつ息をつくと、それに答える。 「……正直に言うと……分からなくなってしまったんです。父が何を考えているのか、この国に何が起きているのか。」 少しずつ、継ぎ足すように、探るように、言葉を繋ぐ。それが置いてある場所などとっくに分かっているのに、手に取ることが出来ずにいるのだ。 「このまま王都に向かっていいのかも……どうしたら全てを知ることが、戦争を止めることが出来るのかも、何も思い付かなくて……」 言い淀むアルクェイドだが、それも迷いの表れである。シナンはあえて口を挟まず、彼が続けるのを待っていた。 「でも……」 ふいに、彼は小さな窓の外、暖かな昼の光に目をやった。 「こうして迷っている間にも、毒薬が作られていて……、彼女をあれほど苦しめている……。」 それからシナンに向けられた彼の表情は、まだ何かをためらっている風である。求められていることは察せたが、シナンはその言葉を、彼から聞きたいと思った。 「これは、ロラン様からの受け売りなんだが」 だから、それが言えるよう、後押しをするだけだ。 「やるべきことが分からなくなったら、その時に一番やりたいことをやれ、だそうだ。……君にとって、それは何だ?」 「……そうしたら」 アルクェイドの瞳は、尚も不安げに揺れる。 「皆さんを、更に危険にさらすことになります。王都騎士団は、王命の障害となる者を許さない」 先程トライスを助けた時、相対したのはセストとルドルフだけだ。通りすがりの傭兵団として、一人の逃亡兵を助けた。彼を追っていたほんの数名の騎士を、しばらく動けないようにした。それだけでこの領を離れれば、雷に撃たれたようなものだと、彼らも自分たちを捕らえることに重点を置きはしないだろう。 しかし、エンドルを支配している王都騎士団を追い出すとなれば、向けられる敵意はその比ではない。自分たちは危険人物として手配され、彼らは国中を探し回り、見逃されるということは絶対にない。ここから先の全ての道は、格段に厳しいものとなる。 「でも、悪いことばかりでもないかもしれないぞ」 それはシナンも予測したことだ。だがアルクェイドから話を聞いて、またトライスの存在があって、彼は何となしに、自分ならどうするかと考えた。 「もし、アルバート陛下ご自身や、その周りに異変が起きているのだとしたら――おかしいと思いつつ、どうすればいいか分からない者もいるんじゃないか?」 トライスは何も知らされず、ただ命じられるままに訪れたこの領地で、エイリーンを救いたいという気持ちから一人で反旗を翻した。 彼ほどの気概を持つ者でなくとも、国の状態に違和感を抱きながら、拠り所が無いために上に従うしかない、そんな人間くらいはいるのではないかと。 王都騎士団の活動を邪魔する者が現れたという報せが広まれば、彼らの中にも、何かしらの行動を起こさせるかもしれない。 「……彼らが、私たちの元に駆けつけてくると?」 「まあ、都合の良い考えだ。何も確実なことはない。王都に行って直接、同志を募る方がいいならそうしよう」 アルクェイドはそれを聞いて、目を伏せ、確かめるように首飾りに触れた。 これから口にする言葉は、シナンたちの運命を左右するものだ。 「……私は」 両の手で拳を作り、膝の上に置くと、アルクェイドは瞼を開けた。 「この領を……救いたい」 「……。」 「ですから、その時は私にも、戦わせてください」 その言葉には驚いたが、予想出来なかった訳ではない。彼のことだから、自分の決めたことを他人に任せっきりにはしないだろうとは思っていた。 そうした所にも時折、彼が生まれ持つ気位の高さ――王族らしさのようなものをシナンは感じるのである。 「……前には出せないぞ。理由はどうあれ、君を守るために、俺はここにいる」 「分かっています。私は、皆さんのようには戦えない」 加えて、彼が今浮かべている、照れ笑いのような微笑。シナンにはそれが、本当に弱々しくはあるが、振り絞った本物の勇気で染めたものに見えた。 彼がそれらしい理由でエイリーンを捨て置いたとて、誰も批難しはしないだろう。そもそもアルクェイドが何者であるかを、仲間たちは知らないのだから。 きっと、彼をそうさせるのは。 「でも、どうしても……彼女を助けないといけない気がして。自分を見ているみたいで」 「奇遇だな、俺もだ」 シナンはそう返して、アルクェイドに手を差し出す。蒼紫の瞳はぱちりと瞬きをしたが、やがて胸元の宝石のような確かな輝きを宿し、それを握った。 アルクェイドが初めてシナンの手を取ったのは、つい数日前のことだ。その時、彼は盗賊に襲われて、恐怖のまま座り込んでいた。 今回も、同じことをした。ただ、あの時とは全てが違う。彼が差し出した手の意味も、対して差し出される手の意味も、そこに込められる力の意味も。 「では、皆にも伝えよう。……きっと、その言葉を待っているはずだ」 ゾール砦は、エンドルの北部に位置する中継拠点だが、その大きさはヴェルクの同じ拠点より一回り以上小さい。 実はエンドル領は、セルヴァニア王国の中で、最も小さい領地である。伴ってそれを守る騎士団も他より人数が少なく、拠点の数も減り、規模は小さくなる。 ここは現在、王都騎士団の一部隊が管理しており、昨日まではエイリーンが客室に軟禁されていた。 「何!?逃げられただと!?」 その書斎に座っている中年の男は、脂ぎった顔を真っ赤にして吠える。報告に来た二人の部下は縮こまり、蚊の鳴くような声で返事をした。 「あの出来損ないめ、厄介事だけは作っていきおって……」 苛々ともみあげの髪を捻っているこの男が、現在の砦の管理者である部隊長、モリスであった。本来であれば、エンドル騎士団の業務も代わって行わなければならないのだが、彼は部下に好き放題させているので巡回に出る者もなく、城内は荒れ、使った食器を片付けられてもいない。 「とにかく、姫君を連れ戻さねばならん。総動員だ。準備を急げ!」 命じられた通り、部下は敬礼も充分にせず、書斎を後にする。モリスは尚も苛立ちを抑えることが出来ず、三回続けて舌を鳴らした。城に事の次第が判明すれば、間違いなく降格だ。そうなる前にエイリーンを連れ戻さねばならない。トライスは、捕まえたら見せしめに処刑してやってもいいだろう。 エイリーンの目的は城に戻り、領主に自分の無事を伝えることだ。だが、その何人いるのかも分からない傭兵団だけを伴ってとは考えにくい。 だとすれば次に、彼女は自分の領の騎士団に助けを求めに行くはずだ。 先に合流されてしまっては意味がない。この砦にいる全員――百五十人で待ち伏せすれば、幾ら相手が強者とは言え、破ることは不可能だろう。 アルクェイドの決断で、シナンたち一行はエンドルの解放に協力することを決めた。それを告げたとき、エイリーンはまた涙を滲ませながら礼をし、ルドルフとカムリはやる気に溢れた笑いを浮かべ、ジュノもやや気弱ではありながら、凜とした表情で頷いたのだった。 その時間が充分な休憩にもなり、改めて、家の主である老婆にも礼をした。すると老婆はジュノに近付いて、小さな袋を渡したのだ。 中を開けて小さな瓶を取り出し、香りを嗅いだジュノは、目を一回りも大きくした。 「これ……ミショルニアの精油!?」 「あら、それで分かるなんて……あなた、なかなか薬師の素質があるんじゃないかしら」 カムリが好奇心から少し顔を近づけただけでも、そこに香りが届いた。もし、澄んだ湧き水に香りがあったら、こんな風だろうかと思った。 「すごいものなの?」 「はい!精油ってだけでも貴重なのに……ミショルニアの花って、とっても珍しいんです!」 ジュノは瓶の栓をこれでもかというほど締め、それを入れた袋の緒も、手が赤くなるほどきつく結ぶと、老婆に深く頭を下げた。 「嬉しいです……でも、どうして?」 老婆は笑い、大したことは無いよ、と答える。 「今は旅に出ていないけど、弟子……孫が一人いてね。お嬢ちゃん、ちょっと似ていたもんだから」 一行が村を出て行くのを、老婆は手を振り見送っていた。少し前までは、彼女の顔にも笑顔がなかったのかもしれない。この村の周りだって、寂れて、小さな畑が気まぐれに作られていただけなのかもしれない。 何よりも、自分たちのために淹れられた茶の、あの繊細で華やかな香り。それを作ったのも、エイリーンの母親なのだ。 アルクェイドはすっかり涙の乾いた頬に風を浴び、地平の先を見据えた。 再び花畑の道を通り抜けながら、一行は次なる目的地――キフ砦を目指す。エイリーンによると、エンドルの騎士は城を追い出されて方々に散らされたらしく、キフ砦には一小隊程度の人数が集まっているはずだという。 彼女は領主の人質にされていた。だから彼女も、城に戻って無事を報せることが最大の目的なのだ。ただ、城を奪還するとなると、この人数ではやはり心許ない。 何よりエンドルの騎士たちも、王都騎士団の勝手な行いに憤りを覚えているに違いないと彼女は言う。そこで最寄りの砦にいる騎士たちと合流し、無事を知らせさえすれば、他の砦にいる騎士たちも集まってくるだろう、というのがエイリーンの考えであった。 「しかし、トライス君」 隊列は、森を歩いていた時と同じだが、人数と馬の頭数に合わせて配列が変わった。先頭はルドルフ、その次の一頭はカムリが操作し、彼に捕まってジュノが座っている。 続いて、アルクェイドを後ろに乗せたシナンが歩き、隣にはエイリーンが、ジュノの馬に乗って並ぶ。そしてアルクェイドの馬をトライスが借り、彼もルドルフの後ろについていた。 「何でしょう?」 「いや、素朴な疑問なんだけどな。君、どうしてあんな無謀なことをしてたんだい?」 ルドルフが訊ねたのは、彼がトライスと出会った時のことだ。 「どうしてって、それは」 「ああ。ええと……王都騎士団に刃向かったら、追放されちゃったりしないのかと思ってさ」 エイリーンを助けようと思った心境を語らねばならないのかと、一人で顔を赤らめていたトライスは、先走らなくて良かったと思った。 「……元々、このまま王都騎士団にいていいのかと、考えていたんです」 「なんか恐ろしい暴言を吐いてたよな」 あの言葉については自分もびっくりしたが、それが常日頃から、あの騎士たちに抱いていた思いの全てだった。トライスは苦笑しつつ、また遠慮がちに、言葉を紡ぐ。 「俺、孤児院の出身なんですよ」 遠くでそれを聞いて、ぴくりとしたのはシナンだった。だが、地方騎士団で言う孤児院の出身者と、王都騎士団における孤児院の出身者とは、扱いが全く違うことは想像に難くない。 地方騎士団を構成するのは、その領の住民、つまり最下層の身分である「民」であった者たちだ。一方で王都騎士団は、「臣」――所謂貴族と呼ばれ、「王」の一つ下の階級である者たちが大部分を占める。 また地方騎士団では、あらかじめ部隊の人数や役割、部隊長も決まっていて、その単位で拠点の防衛などが任されたりする。一方王都騎士団では、部隊というのは任務毎に編成し直されるものであり、平常時には別の階級によって、上下関係が決まっている。それが個人の位であり、功績によって変動する騎士階級だ。