しかし彼らにとって最も根本的な上下関係は、家柄や家名、血統などと呼ばれるもので、彼らが生まれた瞬間に決まっている。
セルヴァニア貴族の家系はほぼ、英雄王アリオーンの側近であった四名の英雄を祖とする「四大家」から血を分け、枝分かれしたものだ。原則としてその血統が四大家に近いほど、高貴な家柄とみなされる。もし自分より序列の高い家の人間と接する機会があれば、その人物の信頼を得ることで、より重要な役職に引き立てられる可能性もある。逆もまた然りだ。
そのため騎士階級が同じであっても、特に自分より格上の家の人間には誠意を持って対応することが、王都の騎士たちの暗黙の了解である。そんな中にも僅かにいるであろう、「民」出身者の肩身の狭さ、況んや家族すらもいない人間の立場など、推して測るべきである。
「……昔、孤児院の近くが盗賊に襲われたときに、王都の騎士が追い払っていました。その姿を見て、俺も必ず、人を助けられるようになるんだと思ったんです」
隣でそれを聞くカムリが、大きく頷いた。
「でも、実際に入団してみたら、巡回が面倒だの、あの貴族の言うことは聞いた方がいいだの。俺が本当に尊敬していた人には、大した家柄じゃないから気にしなくていいだのって。……俺がなりたいと思っていたものは、そこにはなかった」
「……懲りない奴等だ」
セストがそう呟いたのも、聞こえたのはシナンとアルクェイドだけだった。
「まあ、一番大きいのは、家なしだの名無しだのって馬鹿にされてたことなんですけどね。だから、この際、いられなくなってもいいかって思ったんです」
彼の話し方を聞いていても、アルクェイドには、彼が王都騎士団に馴染めなかったのであろうことが手に取るように分かった。そして、彼がいかに高い志を抱いていても、低い所から脱することが出来ないのであれば、周りにはそんな人間ばかりなのだと。
だが王都騎士団は決して、怠慢な騎士たちの集まりではない。そう主張したいのを、アルクェイドはぐっと堪えた。そもそも、こんな横暴を働いている現状で、何を訴えようが信じてもらえまいし、何か意味のあることでもない。
そう考えていると、衝撃の連続ですっかり忘れていたことが、不意に頭の中に戻ってきた。
「俺は、それで良かったと思う。自分の正しいと思うことをしたんだろ」
シナンが言うと、トライスは気恥ずかしそうに、金茶色のぼさぼさな頭を掻いた。
「はは、確かに後悔はしてませんけどね。これからどうしようかってのは、少し……」
そんな話をしている中で、遠方にまばらな木々と、奥に盛り上がった丘、その頂上に座する砦が、地平の向こうから姿を現してくる。
「見えました!あれがキフ砦です」
エイリーンが指を差して叫ぶ。善は急げと、ルドルフが駈歩の合図を出す――と思っていると、彼は逆に、右手を上げて、馬を止めるよう示した。
「……待ってくれ。何かおかしいぞ」
そのまま右手の指で前に出るよう言われ、シナン、そしてセストの馬が前進する。遠い丘のふもとに、一部だけ、木が密集している場所があるようだ。
「あれは……」
「まさか!」
しかし、すぐにそれが見間違いだと気付く。森は規則正しく上下に揺れたりは中々しないものだ。
「……ゾール砦の奴等か!?先回りしてやがったか……」
トライスが声を上げると、一行の中に、不安と動揺が走る。戦うことを宣言したアルクェイドも、流石に不利を悟った。
「相手も場所は知ってるんだから、そりゃあ待ち伏せするわな……ちょっと考えるべきだったぜ」
「……どうします?今なら逃げられる距離ですが」
「それしかねえな。逃げの一手だ。まずはちびっ子たちを――」
「団長」
後ろを向いたセストが、ルドルフを遮る。
「……奴等、どうやら本気で仕留めに来たようです」
その視線の先にあるもの。
中天に差し掛かった陽光に照らされた、目映い白銀の甲冑。整えられた隊列を維持し、こちらに迫ってくるのは、間違いなく王都騎士団の軍勢だ。
「嘘だろ、挟み撃ちかよ!」
トライスが焦り、剣を抜く。前後を塞がれたのなら、横に動くしかない。大きく迂回して砦を目指す形になるが、後ろの集団と交戦せずに逃げ切るのは、この距離ではもう不可能だ。
「隊列を変えるぞ。カムリとジュノは、姫様と一緒に最前だ」
正面の右手へ走り出しつつ、ルドルフは順番に指示を出していく。
「トライス君、シナンも坊ちゃんを連れてその後に続け!セストは俺と一緒にしんがりだ、牽制は任せる!」
「善処します」
セストが答えきらない間に、一行は隊列を新たに組み直し、砦に向かって右方向へと駆け出した。それを追う二つの塊が、軌道に沿って湾曲する。
「逃がすな!!殺しても構わん!!」
最後尾で、部隊長のモリスが檄を飛ばすと、軽装の騎兵たちが一足早く駆け出し、シナンたちへの距離を詰める。槍を構えて突進するが、その一人が短い悲鳴と共に落馬した。
「なっ……弓か!」
「怯むな!齧り付け!」
果敢に追いつこうとするも、一人、また一人と、恐ろしい速さで脱落していく。しかし最前に躍り出た一人がセストの後方、槍の間合いにまで接近した。
「よくも!」
それが彼をなぎ払おうとした瞬間、騎士の馬は突然嘶いて、その場に立ち上がる。意味も分からないまま振り落とされ、彼を狙っていたセストの矢は、ルドルフについていた騎士の元に飛んだ。
「……やった……!」
ジュノが小さく拳を作る。やはり走っている馬の背中では、まだ狙いを定めるどころではない。本当は騎士を狙っていたが、まぐれで馬の前に着弾したのだ。二度目はないだろうと、カムリに掴まることに集中する。
「おらよ!」
ルドルフの大剣が計十人ほどを馬から突き落とすと、防具の少ない先鋒隊は全滅したようである。だがすぐ後ろに、本隊であろう騎兵たちが迫っていた。
「……殺しても構わん、か。楽でいいな」
「よく言うぜ」
弦を引き絞りながら呟いたセストにルドルフが突っ込むと、同時に矢が放たれる。甲冑に弾かれ、セストは武器を剣に持ち替えた。
「さて、もう知らねえぞ。自業自得だ」
砦までの距離はまだ半分以上残っている。前方から迫っていた別の部隊が追いつくまでには辿り着けるかも知れないが、目の前には優に百人以上の騎兵たちが顔を見せている。
「お願い!もっと……もっと速く!」
エイリーンはかつて父親に教わった通り、必死に足から合図を出すが、馬も口の端から泡を吹き始めている。倒れたり立ち止まったりしては元も子もない。
振り返れば、後方では戦闘が行われている。見ていても仕方がない。自分では力になれない。今は、ただ砦に到達することだけを考えなければ。知っているはずの道程が、悪夢のように長く感じられても。
「……!」
その時、彼女の目に映ったもの。
報せなければならない。だが、戦っている人間の注意をこちらに向けるのは危険だ。
「……皆さん!」
エイリーンは、すぐ後ろを走っている者たちに声をかけた。
「私を……私を信じて、このままついてきてください!」
その真意を聞きたいところだったが、シナンもそろそろ後ろを気にしなければならない。エイリーンが大きく、左方へと舵を取る。馬たちは自然と、前を追ってそちらに曲がる。
「もう逃げられんぞ、死ね!」
振り降ろされた刃を弾き返し、ルドルフの大剣が、胸当ての中央を突く。衝撃に耐えられず落馬する騎士のその後を見ている暇も無く、次は槍が飛んできた。
「うおっと!」 寸前で避けるが、自分の得物では対応できる人数に限界がある。距離を空けようとするが一人に併走され、真正面から突きを受けそうになった。 「――何!?」
こうした場面での咄嗟の防御のため、ルドルフの大剣は、鍔の部分に槍を絡め取る装飾が加えられていた。そのまま押してやると、均衡を崩した騎士は置き去りにされる。
「くそっ……舐めた真似を!」
セストはというと、自分に接近してきた騎士の手元を狙って攻撃を加え、次々と武器を取り落とさせていた。
「正々堂々と勝負しろ!」
槍を両手で持ち、渾身の力で振り下ろそうとするが、あろうことか素手でそれを受け止められた。
「断る」
押し返され落馬する騎士の怨嗟の声は聞こえないふりをし、また次の目標を定める。その時、ルドルフが珍しく慌てた声を上げた。
「おい……おいおいおい!あいつらに近付いてねえか!?」
いつの間にか、自分たちの進路は、元々の道に戻ってきているようである。伴って前方に待ち受けていた部隊が、既に至近距離に迫っていた。
「……ですが、あれは」
セストの目には、その部隊の正体が映った。しかし残念なことに、話している暇が無い。セストは剣の連撃を、ひたすら凌ぐ方向に切り替えた。
先頭寄りを走るシナンには、彼らの様子がよく見えていた。自分たちの尻尾になっている部隊よりも人数はずっと多く、前衛にいるのは重装備の騎兵、それで足が遅いのだと。エイリーンが誰かの名前を叫んでいる。
彼らが纏っているのは、やや黒みのある鉄の甲冑で、その縁にだけ、鮮やかな若草色があしらわれていた。
「――今だ!」
絶え間なく前進を続けていた彼らの軌道が、シナンたちと王都騎士団、その境目と交差する。
「全隊突撃!我々の怒り、思い知らせてやれ!」
一斉に怒号を上げ、速度を増す部隊の中央。白金の髪を振り乱し、一人の女性騎士が叫んだ。
「……え?」
ルドルフが、何が起こっているのか分からないと言った顔で手を止めた。幸いなのは、敵も同じ状態だったことである。
「なっ……!?」
モリスは、自分たちに必要なのが、防御態勢を取ることだと察した。その気付きはあまりにも遅く、怒濤の勢いで走り込んできた重騎士たちに、王都騎士団はまとめて弾き飛ばされてしまう。
ルドルフとセストはそのまま走って、馬を止めていたエイリーンたちに追い着いた。自分たちの尻尾だったものに噛みついた騎士たちは、まるで数百頭の狼たちが数頭の羊を狩るが如く、王都騎士団を引きずり下ろしていく。
「……っていうことは、何だ、あれか?」
息を切らしながら、ルドルフが全員の顔を見回す。
「俺の早とちり、ってやつか、これは」
「……そうみたい、ですね」
シナンも必死に走っていただけで、何がどうなったのか把握できておらず、素直な感想を口走ってしまった。
ある日突然に城を追われ、領主とその家族を人質に取られ、仲間たちは散り散りに追いやられた。そんなエンドル騎士団が抱えていた憤怒の激しさを、シナンたちは一足早く目の当たりにしたのである。


「ヘイスティンドの手の者より連絡が。王子アルクェイドはヴェルクの騎士に連れられ、エンドル領方面から王都へ向かっているようです」
白銀の刃で風を斬り続けていたその人物は、報告を受けて手を止めた。
そこは打ち捨てられて久しいように見える、無人の訓練場だった。高みから埃を浮かばせて差し込む黄色い光の他、照らすもののない薄闇が、その背中の静かな感情を克明にする。
紅い髪を靡かせ振り返れば、その顔の上半分は、黒い仮面が覆っていた。
「……エンドルか。図らずも罠にかける形になったな」
しわがれてはいるが、女性の声であった。彼女は剣を鞘に収めると、部下に告げる。
「我々も追跡する。五人いれば充分だ。すぐ出発するぞ」
「はっ」
立ち去る姿を見送り、再び空虚になった空間で、彼女は乾いた唇を微かに震わせる。
「……ヴェルクの騎士……か」
甲冑の下、被服の中で眠っている古びた傷が、再び鮮血を噴き出すかのように脈動し始めていた。


(「花姫の祈り」 了)