周りに見られないうちにとそれを拭った彼は、ぼんやりと、彼女の言葉を反芻した。
自分がもっと勇敢だったなら。聡明だったなら。
七名は、思い思いの表情で、再び沈黙する。セストは腕を組んだまま卓の上に視線を落とし、ジュノはまだ中身の残った杯を両手に包んでいる。カムリは皆を見渡しているが、いくらか痣の薄くなった顔には、微かな義憤が見てとれた。
トライスに宥められ、感情を落ち着かせたらしいエイリーンは、涙を抑えながら少しずつ顔を上げる。
「……ごめんなさい。皆様を足止めするつもりは……」
顎に手を添えていたルドルフは、ふっと息をつくと、殊更に明るい口調を意識して言った。
「まあ、普段なら俺が、受けるかどうか判断するんだが。今はこっちの坊ちゃんの依頼の最中だ。決めるのは依頼主さな」
それから、シナンとアルクェイドの顔を見て、にっと笑う。
「ここじゃ話しにくいだろ。別の部屋でも貸してもらったらどうだ?」

倉庫らしき部屋にいた老婆に声をかけると、何処でも使ってください、という返事がきた。これほど大きい家なのに彼女しか住んでいないのだろうかと、今更の疑問が湧くが、それは後回しだ。
寝台と窓が一つずつある小さな部屋に入り、扉をそっと閉める。互いに話し出す間合いを窺っていると、アルクェイドが床に崩れ落ちた。
「!」
シナンは慌てて彼を支える。アルクェイドの元々白い肌は更に青ざめていて、とても会話が出来るようには見えなかった。大丈夫か、とも聞けない程に。
「……すみません」
やがて彼は囁くような声で言って、自分の力で顔を上げた。
「何が起きているのか……分からなくて」
「……ああ、俺もそうだ。」
シナンはアルクェイドを寝台に座らせると、自分は床に片膝をついたまま、静かに話を始める。
「エイリーン殿の話されていたこと……あれは、アルバート陛下が命じられたことだと思うか?」
一つ目の問いに、アルクェイドは首を横に振った。
「……私にラドアルタとの友好を説き、平和を託したのは、他でもない父です。今更、それが嘘だったと言われても……信じる訳にはいきません」
彼の声は失意に濡れそぼっていたが、シナンはひとまず、その答えに安堵する。
「そうか。では、俺の思うアルバート陛下と、君から見た陛下は、然程違わないんだな」
「……。」
「だが、だとすると誰が……やはり君や陛下に反対する貴族、か?」
セルヴァニアの貴族。この国を興した英雄王アリオーンの忠臣たちに血の起源を持ち、また唯一、王に代わって国政を執り行うことを許された者たち。彼ら自身は武力や領地を持つことは出来ないが、その生命や財産は、「王の権威」によって守られる。
シナンはかつて、貴族という人々について、セストから聞いたことがあった。曰く、彼らにとって価値のあることは、王族を含めたより名高い家系の人間に近付くことだけだそうだ。そのためには賄賂、濡れ衣、暗殺とあらゆる陰謀を用い、必要ならば親族であろうが、身内であろうが、その立場を引きずり落とすことくらいは平気でする連中だ、と。
彼は王都に関わる物事全般に否定的なので、それが貴族たちの全てではないだろうが、その時のシナンは恐ろしい世界もあるものだと思っていた。
しかしこの国の頂点に立つのが王族である以上、セルヴァニアの全ては本来、王族の手にあるべきものである。セルヴァニアに住む全ての人間は、一時的に王族の持ち物を、その許しの上で預かっているだけに過ぎないのだ。貴族もそれは同じであり、あらゆる活動や功績は王によって認められなければ意味を為さず、全ての財は最終的に、王に捧げられる約束となっている。
もし彼らが王宮を乗っ取っているとすれば、アルクェイドやアルバートの方針が気に入らない、というのは建前だ。彼らの目的は自らの手にある富を、真に自分たちのものとするためで、アルクェイドが不在となるこの隙を狙って計画を実行したのだろう。
アルクェイドはすぐには答えなかった。やがて見逃しそうなほど小さく頷いたと思うと、直後に自ら、それを否定した。
「……しかし、そうだとしても私には不可解です」
「何故だ?」
「たとえ、父が貴族たちの言いなりになっているか、彼らを制することが出来ない状態だとしても……それを良いことに国を戦争に向かわせるなど、危険が大きすぎます」
そこでシナンを一瞥し、彼がまだ怪訝な顔をしているのを見て、続ける。
「私の祖父の代まで、貴族たちは国政を完全に支配していました。この国の統治者であるはずの王は、貴族たちが出した結論に異を唱えることも許されず、個人の私腹を肥やすためだけの政策が野放しにされている状態だったのです」
ヴェルク領主の養子となるため城に住み始めたばかりの頃、シナンはセルヴァニアの歴史を学ぶに当たって、そのようなことを聞いた覚えがあった。
当時、各領が国へ納めなければならない税は現在の倍以上に膨れ上がっていて、それは領主にさえ還元されることはなく、ただただ民が苦しい生活を強いられるだけだったという。最後にはとある騎士が多くの貴族たちを粛清し、自身も死罪を言い渡される形で、闇の時代に幕を下ろしたのだが。
「その時もそうでしたが……貴族たちが国を掌握しようとする場合、彼らは武力に訴えはしません。まず王の信頼を得、公務を任させ、王が自分たちの言葉を鵜呑みにするよう、少しずつ毒していく。考える力や判断する力を奪っていく。そうして思い通りに国政を進め、もし反感を買った時は、王に全責任を被せるのです。彼らは王宮を追放されれば全てを失い、生きていくことが出来なくなりますから」
「……つまり貴族たちが王宮を操っていたとしても、それを良しとしているのは陛下ということか」
「はい。……ラドアルタと戦争になれば、その責任を押しつける相手は、他にはいません」
アルクェイドはそこまでしか語らなかったが、つまり彼の言いたいことはこうだ。
貴族は身を守るため、自分たちには批判の矛先が向かないように動く。彼らが実質的に国を動かす間も、王は普段通り民の前に姿を見せるなどして、国の統治は正常に「王によって」行われていると印象づけることがそれには必要だ。
もしも、このままセルヴァニアが戦争に向かったとして、その舵取りに国王は関わっていなかった、関わることが出来ない状態にされていたと知れれば、民や一部の騎士からの反発は免れない。
今、王宮が貴族たちに操られているのなら、アルバートが彼らを全面的に信用するようになった、という段階を経ていることになる。それも、ラドアルタに毒を撒くという計画の是非さえ疑わない程に。
時間さえかければ、或いは何かしらの弱みを握れば、ラドアルタとの友好を長年掲げ続けていた人間の思想を、こうも極端に変えることも出来るのだろうか。
「その兆候というのか……陛下が貴族たちに惑わされているような様子は無かったのか?」
それは確認こそ兼ねていたが、何の他意も無い疑問であった。
だが、それを聞いたアルクェイドは、びくりと肩を震わせ、俯いてしまう。そして、恐怖や不安の前でいつもそうするように、胸元で輝く首飾りを握り締めた。
予想しなかった反応にシナンがややうろたえていると、アルクェイドは息を呑み、今にも消えそうな声で答える。
「父は……」
「ああ」
「私の親善訪問が決まった頃から、病に伏せていました」
その顔は真下を向き、言葉は涙のように床に落ちていく。
「……その原因は、私だと」
「……。」
「私が訪問を強行したことで、王族と貴族たちの間に軋轢が生まれ……父はその心労で、体調を崩してしまったのだと……」
今もアルバートが病床にあるなら、国の乗っ取りを画策している人間にとっては絶好の機会である。しかしアルクェイドが言いたいのはそこではないのだ。
「……周囲の人間がそう言ったのか?」
「いえ、そう言ったのは、一人、ですが……。」
シナンはいつだったか、アルクェイドの自信のなさ、また自分が命を落とすことの重大さを知っていながら、危険を顧みない矛盾した言動を取ることに、違和感を覚えたのを思い出していた。
彼とその一人の人物、またアルバート王がどのような関係にあるのかは、詳しくは分からない。ただ、アルクェイドが普段から、それも幼い頃から、そのような発言を受け続けてきたのだろうということが推し量れるだけだ。
「それから、父は……私と会うことを拒むようになりました。もしかしたら、病をきっかけに、変化があったのかも……」
「では、最近は陛下とは話していないということか?」
「……はい、顔を見ることくらいはありましたが……」
心に傷を受けることでそれが体にも病として現れ、また病の痛みや苦しみが心を蝕むという悪循環は、珍しいものではない。かつてはロランがそうだったし、エイリーンの話を聞く限りでは、エンドル領主もその状態に近いのかも知れない。
だからといって、ロランは病の最中にも、力で人を従わせる性格になったりはしなかった。本当にアルバートが心労によって体を壊したのだとしても、アルクェイドが数ヶ月話さない間に、温厚な人柄がここまで真逆に変わりはしないだろう。実はアルバートには、攻撃的、暴力的な本性があった――という訳でもないのは、アルクェイドの反応を見れば明らかである。彼はそれなりの信憑性と同時に、戸惑いも感じている。
シナンはアルクェイドを安心させようと、笑ってかぶりを振った。
「そんなもの、その一人が勝手なことを言っただけじゃないか。」
「……でも……」
その意思に反して、アルクェイドが細い手に込める力は強まり、横顔は銀色の髪に隠される。
「……私でなければ、こんなことには」
嗄れた喉から押し出されたその声は、まるで懺悔のようだった。
彼が何を指して「こんなこと」と言うのかは分からない。だが、アルクェイドが内に抱えている否定が生半可なものではないことを、シナンは改めて思い知った。
軽い気持ちで慰めようとしてしまったのは間違いだったかと、シナンは口を噤む。すると、静寂が訪れたことに気付いたらしいアルクェイドが、我に返ったように顔を上げた。
「……あ!ご、ごめんなさい……変なことを言ってしまって……」
元気に見せるためか、萎んでいた声を再び張ってはいるが、その瞳には暗い思いが宿ったままだ。
ここで下手な言葉をかけるのは、逆効果かもしれない。それでもシナンは、彼を縛っているその呪いのようなものを、見ないふりで通す訳にはいかなかった。
「いや。……ただ、この際だから言わせて欲しいんだが」
シナンが笑みを浮かべているので、アルクェイドは彼の言うことの予想がつかないのだろう、黙って聞いていた。
「そうして自分を卑下するのは、やめた方がいい。君自身がどう思っていようと、君はラドアルタとの平和を実現する、最も重要な鍵だ」
「……!」
「君は周囲に反対されながらも、未来のためにラドアルタへ向かうことを決めたんだろう。しかも、命を狙われても尚、その信念を抱き続けている。そのことを、もっと誇りにするべきだと思う」
その時のアルクェイドは、何か世界を変えるような、大きな真実を告げられたような顔をしていた。と思うと、さっと下を向き、目元を指で拭い始めた。
もし、この少年がただ自分を蔑み、人を遠ざける、気弱なだけの性質だったなら、シナンは彼の告白を信じなかっただろう。
しかし、彼はきっと自分で思う以上に、多くの煌めくものを持っている。隣国の素晴らしさをも認め、共に歩むことを願い、そのためには数の不利を押し切る熱意もある。それに、あのレベリオを相手に剣を向けるほどの勇気だって、内に秘めていることを知っている。