「……以前の父なら、そんな言葉には惑わされなかったと思います」
それがシナンには、重要な話のように感じて、耳を傾ける。
「母が亡くなってから、父は変わってしまいました。怒りっぽくて、何かにつけて不安を口にするようになって。……きっと王都騎士団も、そこに付け込んだのでしょう」
そして、幼少のエイリーンには無かった憂いの色は、この事件より前から彼女の中にあったのだと察する。記憶の中のエンドル領主ジェードは厳格な雰囲気を纏い、起こる確証もない戦争の恐怖に、口先だけで踊らされるようには到底見えなかった。
だが、深く愛した誰かを亡くすことがその人間を如何に変えてしまうか、シナンは身をもって知っている。思い出すのは領主ロランと初めて顔を合わせた日。何も見ず、何も聞かず、ただ、朽ちていくのを待っているだけのような姿。
「私からお話出来ることは、これで全てです」
予想を遙かに上回る深刻な状況に、一同は今度こそ、言葉を失ってしまう。ルドルフやカムリたち、アルクェイドが「商人の息子」だと思っている者は、こんな大きな事件に関わるべきではない、という意見を持っているだろう。
シナンも話を聞くまでは、非情ではあるが彼らについては見捨て、王都への道を急ぐべきだという考えだった。アルクェイドの無事を王に報せさえすれば、彼にまつわる全ての事件は解決すると信じていたからだ。
しかしどうやら、事態は自分たちの行動するよりも、ずっと大きく、先に進んでいる。このままがむしゃらに進んで王都を目指したところで、この旅の最大の理由――ラドアルタとの戦争を止めたいという願いは果たされない。少なくとも自分たちだけでは、その真逆の思想を持つ者たちから王宮を奪還することは不可能だ。
だからといって、エンドルを救うことが、何かしらの進展になる保証もない。王都騎士団に敵視され、道が決定的に険しくなるというだけである。
「すみません。お話中、失礼します」
堂々巡りに陥りかけたシナンを止めたのは、控えめにかけられた老婆の声だった。彼女は盆を手に部屋の入り口に立って、そこには人数分の、湯気の立つ杯が載っている。
「お茶を淹れましたので、皆さんにと思いまして」
老婆は部屋に入ってきて、一同の前に一つずつ、大きさも形もばらばらの杯を置いていく。仄かに濁ったその鏡面からは、収穫したばかりの果実のような、或いは草原を濡らす朝露のような、瑞々しい香りがした。皆の沈んでいた表情が、それに解されてほんの僅か明るくなる。
「畑で取れた薬草のお茶です、疲れが取れますから」
「……ありがとう。ごめんなさいね、お忙しいのに」
エイリーンが労うと、老婆はにこやかなまま、いえいえ、と答える。そのまま部屋を出ていくかと思うと、彼女は帰り際、中を振り返って言った。
「皆さんは、旅の方なんでしょう。畑はご覧になりましたか」
まだ頭が切り替えられていない五名がぽかんとしていると、ジュノがそれに答える。
「はい、すっごくきれいでした!」
老婆はそれを聞き、ほっとしたように、うんうんと頷いた。
「こんなもてなししか出来ませんがね、いい場所だと思ってもらえたら、あたしも嬉しいもんですから」
そう残して彼女は一礼し、また小さな背中を薄暗闇の中へ消していく。
シナンも杯を手にすると、伝わってくる温もりで、散らかった心の中が不思議とまとまるような気がした。
「……一口、飲んだらどうだ。少し落ち着こう」
一方で未だに沈んだままのアルクェイドに、シナンは小声でそう勧める。顔を上げたアルクェイドは、皆が自分を待って手を付けないのだと気付くと、一口すすった。
その茶が舌に触れると、最初は清涼感が立つのだが、その奥には仄かな甘みがある。花の香りなのだろうが、飲み込んだ後には果物を食べたような、さっぱりとした感覚が残った。
「……おいしい。」
「これ……何かな。カロニカの匂いと、クラロイサ……?」
カムリが静かに感動している横で、ジュノは茶の原料について考え、ぶつぶつ呟いている。それを笑顔で眺めていたエイリーンが、ぽつりと呟いた。
「……昔は、エンドルの人々は、他の土地からやって来る人が苦手だったんです」
その言葉と、実際の心遣いとの差に、セストとルドルフ以外の全員が目を丸くする。セストはいつも通り感情を出していないだけだが、ルドルフは昔、そんな話を聞いたことがあったのだ。むしろ当時はエンドルといえば薬、という印象がまるでなく、その噂でしか語られていなかった。
エンドル領の民は、研究者的な側面が強いためか、文化の違う人間との接触を好まないと言われていた。彼らが他領に薬を売りに来ることも、また他領の人間がエンドルでものを売ることもあったが、エンドルの人間は売り手も買い手も、あまり愛想が良くないので有名だったのだ。
旅人など来客をもてなすという習慣も薄く、エンドル領は様々な人間から敬遠されていた。商人に素通りはされても往来だけはあるヴェルクを差し置き、最も人通りの少ない土地とも言われていた程だ。
それがいつの間にやらセルヴァニア王国随一の、薬師たちの領、薬の名産地である。
「それを変えたのも、私の母でした。彼女がいなければ……きっとエンドルは今も、誰にも見向きされない領だったでしょう」
そう語るエイリーンの微笑みは、どこか誇らしげだ。
「ああ、領主や貴族なんかも世話になってるって、聞いたことがあるぜ」
ルドルフもいつものくだけた調子に戻り、相槌を打つ。彼の言う「領主」とは、言わずもがなロランのことだ。エイリーンは嬉しそうに頷き、続ける。
「……母は、父と結婚する前から、薬師として色々な草花を調べ、薬を作っていました。セルヴァニア王国が出来る遥か昔から、この土地の人々が築いてきた知識……母はそれに、誇りを持っていたんです」
彼女の母、ロゼットの口癖は、エンドルの薬はセルヴァニア一だ、エンドルの薬に治せないものはない、だったという。領主ジェードが彼女を妻に選んだのも、エンドルをもっと豊かにしたいという、ロゼットからの熱烈な想いを受けたためだった。
ある日のこと、彼女は領主ジェードに提案をした。もっと多くの人々に、エンドルの薬の良さを知ってもらいたい、と言うのだ。そのために大きな町で、エンドルの薬を売ってみたいと。
まず選ばれたのは、隣領マルキアの港町だった。彼女は数名の護衛の騎士を伴い、自分で商品を背負って町へ赴いた。最初こそ、足も止めてもらえない日々が続き、やっと商品を手に取られたと思えば、ただの傷薬だろ、と馬鹿にされたりしたこともあったそうだ。
だが数ヶ月もすれば、薬を買った者からの評判が町に広まり始めた。ある時などは持って行った商品が足りなくなったと言って、次からは荷物持ちに、同伴する騎士が増員されたという。
やがて、訪れることがなくなって久しい行商が、エンドル城の門を叩くようになった。ロゼットは、これでもっと多くの領に名前を広めることが出来ると、大いに喜んだ。そして、彼らに薬を売って得られた収入は、何よりも先に民の生活へと充てられた。
「……立派なお母様ですね」
シナンの率直な感想に、エイリーンは語りを止めて、おかしそうに笑った。
「いいえ、それは……そうしないと、皆が納得しなかったからなんです」
「え?」
「当時は、お母様の考えに賛成している民は、殆どいませんでしたから」
実は当初、ロゼットの試みは、領民たちには難色を示されていたのである。彼女はジェードとの結婚式で、彼に話したのと同じ想いを、集まった人々に語った。だが他所の人間との接触をとにかく嫌う領民たちは式の後、自分たちの使う薬がなくなるだの、今のままで充分だのと、口々に不満を述べていたらしい。
そんな彼らも、ぼろぼろだった家や村の改修が行われ、衣類や食料も充分手に入るようになると、少しずつ意見を変え始めた。自分たちの薬が出した利益によって暮らしが変わってきたことで、領民たちは以前より熱意を持って、薬草や薬の生産に取り組むようになった。生活の為に作り、その余りを交換していただけに過ぎなかった彼らの中に初めて、作ったものへの矜持が生まれたのである。
ひとたび行商がやって来てからというもの、エンドルの薬は瞬く間に国中の人々の手に渡り、キームゼンやクルグラントといった大きな領地、果ては王都からも、薬を仕入れたいとやってくる商人が押しかけるようになった。しかしロゼットは、その全員には薬を売らなかった。彼らの要望に応えるために領民に無理をさせたり、農地を闇雲に増やしたり、また薬の質を下げたりすることを、彼女は許さなかったのだ。
やがて、領主はエンドル城に、彼女のための部屋――「調合室」を作った。そこには領民から納められたもの以外にも、商人に仕入れさせた様々な薬の原料が揃い、加工や調合に必要なあらゆる器材が備えられていた。それが領主から妻に示せる、最大限の感謝の気持ちだったのだという。喜び以外の感情をあまり露わにしなかったロゼットが、そのただ一度だけ涙を流したと、エイリーンは聞いていた。
またロゼットは時折、そこに領内の薬師を呼んで、知識や技術を皆で分け合う場を設けた。彼女の志は薬師たちに自信と誇りを与え、それは彼らが個人的に薬を売りに行く時にも、態度の変化として現れ始めていた。こうして、エンドル領の人間は無愛想、という印象は、エンドル領の人間は信頼できる薬師、という形に上書きされていった。
「とにかく母は研究熱心で……よく、新しい薬を自分で試していました。きっとそれが原因で、四年ほど前、病に……」
彼女が愛おしそうになぞる紋章も、母から受け継いだものなのだろう。少ししんみりとした空気の中、残り少ない茶を見つめながら、ルドルフがしみじみと呟いた。
「……母上様がご存命なら、こんなことは許さなかっただろうな」
それを聞いたエイリーンが、ぴたりと手を止める。一息ほどおいて、全員の視線を集めていることに気づいたルドルフは、さっと顔を青くした。
「す、すまない!そういうつもりじゃ」
「いいえ、大丈夫です。きっとその通りだろうと思いますから」
エイリーンは相も変わらず気丈に笑ってみせ、茶で口の中を潤すと、話を続けようとする。
「……だから、本当は」
しかしその声は掠れ、伏せた面持ちは、緩く波打つ亜麻色の髪に隠れてしまう。
「本当は、私が何とかするべきなんです。私がエンドルを守ってみせるって、約束したんです。母のような薬師になって、今よりももっと、民を幸せにしてみせるって」
その言葉を聞いた瞬間、シナンの脳裏によぎった記憶があった。
弱き人々を救うのだ。亡き母との約束を果たすため、無我夢中で自分の体を苛め続けた日。
「なのに……私、何も出来なくて……今も母の部屋で、人を殺す薬が作られているのに……!」
同時に、強く握られた彼女の手袋の、指先に万遍なく付着した染みは、薬草を摘んだり千切ったりしてついたのだと気付く。
彼女が母に追いつこうと、懸命に歩んできた足跡そのものだ。それが否定されていくのを、遠くから見ていることしか出来ない気持ちなど。
「悔しくて……情けなくて……!私が戦えれば、もっと賢ければ、止められるのにって……!」
堪えきれず嗚咽するエイリーンの姿を見ていたアルクェイドは、ふと、自分の頬に触れた。心は今も呆然と、遠くに離れてしまっているが、そこにはいつの間にか、一筋の滴が伝っている。