背後に小さな山を、西側に河川を擁して建つエンドル城には、他領の城ではまず見られない、この土地ならではの部屋が一つある。一見すると広い厨房のようだが、長い作業台の隣には大きな箱のような機械が並び、棚には籠や壺に入れられた薬草の数々、また脂や蜂蜜といった、薬の原料たちがひしめきあう。すり潰された草花や噴き出す蒸気が含む微かな香りが混ざり合って、この部屋には常に独特の匂いが満ちていた。
ここは十年以上前、エンドル領主が薬師であった妻のために増築した、「調合室」と呼ばれる部屋だ。農民たちから税として納められた薬草の倉庫も兼ね、城に住処を与えられている薬師たちが、日夜研究に励んでいる。
今日も十数名の薬師たちが調合に勤しんでいるようであったが、その動作はどこか緩慢で、会話の一つも無い。かつて領主夫人が近隣に住む薬師たちを集め、共に学びあう場としても使われていた調合室は、作業の無機質な音だけが響く異質な空間と化していた。
「順調ですかな、皆さん」
その異質さを決定づけているのは、壁際に人一人分の間を空けて並び、薬師たちを監視している王都の騎士である。中年の男は部屋に入ってくるなり、陽気な声色で話しかけるも、答える者は誰も居ない。
「おやおや、熱心なことだ」
呆れた風に息をつき、彼は傍らに控えていた騎士から、「成果物」だという小瓶を受け取る。それを軽く振ると、確かに中身が入っている音がして、満足そうな笑顔を見せた。
「……さすがは名高いエンドルの薬師たちですね。こんなに早く出来上がるとは」
だがやはり、反応する者はいない。気を悪くすることもなく、男は小瓶を懐に収め、引き続き監視するよう騎士に命じて調合室を後にした。
ここに来た当初の薬師たちは、「信条に反するものは作らない」と自分たちの頼みを撥ね付け、徒党を組んで反抗していた。しかし部屋の主であるエイリーンがいなくなってからは大人しいものである。彼女と領主がこちらの手の内にある今、無駄な時間をかけたり、偽物を納めて信頼を損なうようなことはしてほしくない、と釘も刺した。今まで作ったことのないものを、試作品とはいえ十日余りで仕上げてくれたのだから、彼らは充分に王への忠誠を示してくれた方だろう。
ただ、王の命令を完遂するには、もう一つしなければならないことがある。この茶色い小瓶の――正確には、中に入った液体の力を確かめることだ。
流石に自分の体で、という訳にはいかないが、何なら領民か、その辺りをうろついているならず者でも捕まえてくればいい。
効果が実証されれば、この薬を量産する体制に移る。
その時が、あの目障りな魔道国の最期だ。


−V 花姫の祈り−



「ええ、エイリーン様ですか?先ほどいらっしゃいましたけど」
エンドルは、王都騎士団によって支配されている。エンドル領主の娘、エイリーンの告白は一同に衝撃を与えたが、特にシナンとアルクェイドにとって、その情報は今後取るべき行動にも関わるものだった。
王都騎士団が他領で活動出来るということは、彼らの主である国王から、それを許可されたことを意味する。或いは、アルクェイドが王都を離れている間に反乱が起きて、何者かが王になり代わり、騎士団を統制しているのか。どちらにしろ国の中枢に異変が起きているならば、アルクェイドを王都に辿り着かせるだけでは、事態は解決しないということになる。
そもそもシナンたちの旅の目的は、王都騎士団の裏切り者と思われる敵の目をかいくぐり、アルクェイドの無事を国王に報告するため。そして、彼を襲撃したのはラドアルタの人間ではないと知らせることだ。
だが既に王都では、アルクェイドに敵対する者の方が多数派になっているのだとしたら――王都へ帰還するのは、檻に自ら飛び込むようなものである。
「……分かった。詳しく聞かせてくれ」
ルドルフが促すと、口火を切ったのはトライスであった。
「十日ほど前です。俺たちはヴェズリーという男に率いられ、この領に来ました」
曰く、彼は何の前触れもなく、ある任務のための部隊に編入されることになったと告げられた。その内容についての説明が一切無かったことを不審にも思ったが、現地に到着してから話すと言われ、元より拒否する権限もなかったので、指示に従って王都を出発したのだ。
「ですが約束と違い、ここに着いた後も、俺達は詳しい事情を聞かされませんでした。そのまま、俺達はエンドルの騎士を追い出す形で、城に居座ることになったんです」
「追い出すって……そんな身勝手、領主様が許さない気がするが」
呟いたルドルフに、エイリーンは力無く首を振り、否定を示した。
「……一度は、反対したのかもしれません。いいえ、しないはずがありません」
続けて彼女も、自分がその時に見聞きしたことを話した。彼女はそのヴェズリーという男と領主ジェードが話している間、書斎を追い出され別の部屋にいた。王都の騎士に監視された状態で長い時間を待ち、ようやく呼び出されて父の元に戻ると、彼女は話し合いの結論だけを聞かされたのだという。
その記憶に触れるエイリーンの唇は、怒りからか、恐怖からか、震えていた。
「……エンドルの薬師たちに、毒薬を作らせると」
「毒……!?」
驚いたシナンだが、更に悪い予感が、彼の喉元を締め上げた。もしその男か、王都にいる誰かに個人的な用があって毒薬が欲しいなら、領地を乗っ取るなどという大がかりな行動に及ぶ必要は無い。
まず城を抑えたのは、エンドル領を主体としてそれを作らせるため。そうして出来上がる大量の毒薬が、一体何に使われるのか。
「私は耳を疑って、すぐ考え直すように言いました。……けれど、もう決まったことだと。これは国にとって、必要なことなのだと……」
「国にとって必要?そりゃ一体……」
そんな質問が出来たのは、ルドルフだけだった。シナンもアルクェイドも、確かめるのが恐ろしかったのだ。
最早、それは予感などという、曖昧な形をしたものではない。正しく言うなれば、「気配」だった。そしてその気配はルドルフに答える形で、エイリーンの声から姿を現した。
「ラドアルタとの戦争を、有利にするためだと聞きました」
「そんな……!」
思わず立ち上がりかけたアルクェイドだが、今の役柄を思い出して席に着く。しかしその面持ちは、奈落の崖に突き落とされるように、みるみると絶望に染まっていった。
彼のその反応も、不幸中の幸いか、気にかけた者はいなかったようである。アルクェイドの表情を一瞥したセストと、シナン以外は誰も、唐突に出てきたその言葉の意味を理解出来ずにいたのだ。
「え……せ、戦争……?」
「どうして、そんなこと……」
ジュノとカムリが呆然と口にするが、その疑問に答えられる人間は、今ここにはいない。
「時が来ればセルヴァニアの人間がラドアルタへ潜入し、それを薬と称して人々に売る計画だそうです。私はますます、それを認める訳にはいきませんでした。しかし父は考えを変えず、私はその日のうちに、離れた砦に移されてしまいました」
「……俺はその砦に、エイリーン様を守る、という建前で配属されました。そこでエイリーン様からようやく、今の話を聞いたんです」
エイリーンとトライスの話を信じるなら、エンドルに起きている事態は、たとえ傭兵団という仮の姿でなくても手に余るものだ。それだけでなく、シナンの頭の中には、新たに不可解な点が浮かび上がってきていた。
ラドアルタに対して使う毒薬をエンドル領で作らせるよう、王都騎士団が命令を受けた。飽くまでシナンの推測だが、それが国王直々のものであった可能性はとても低いだろう。
まず、この異変は少なくとも、アルクェイドが親善訪問に出発した直後から――ともすればそれ以前から動き始めていたのだ。アルクェイドが襲撃されたのは今から四日前。一方でトライスたちがここにやって来たのは十日前、任務はそれより前に言い渡されていた。つまりその頃には既に、国はラドアルタと戦う構えを取っていたことになる。
だが「安穏王」の異名を冠する現国王は、予てより人々の平和を願い、アルクェイドにも意志を継がせている。そんな人物が突然、自国の領を力で従わせた上、民を無差別に殺すような方法でラドアルタを攻撃しようと思うものだろうか。せめて、たった一人の息子がラドアルタに殺されたから、という理由でもあればまだ納得が行くが、それでは話が前後してしまう。
ヴェルクを出る前夜、アルクェイドは領主ロランの前で、王宮には王や自分の方針をよく思わない者がいる、と話した。今のところ、一連の事件は彼らによって仕組まれていると見て間違いないだろう。彼らが王宮を占拠し、王族の力を奪って、国を意のままに動かそうとしているのだと。
そうなると引っかかるのは、アルクェイドの言動だ。彼は自分を亡き者にしようとした主犯について、はっきりとは心当たりがないと言った。しかしラドアルタとの友好を是としない勢力が一定数いて、彼らが深く関わっているかもしれないとは思っているのだ。
自分があの場所で襲撃されたことが、二国の関係にどんな影響を及ぼすかも、アルクェイドはよく分かっている。であれば、それを計画した者たちの目的は、考えるまでもないはずだ。王都に帰還したとして、そう易々と、国王との再会が許されないであろうことも。
にも拘わらず、アルクェイドは、国王に無事を伝えさえすれば、と言い切っていた。
彼の中には、たとえ大勢の敵対者が王都に待ち構えていようとも、国王と話が出来る、そんな確信があったのだろうか。
「……それを王都騎士団がやらせてるってことは、王様の命令ってことでいいのか?」
長い沈黙の後、思い切った確認をしたのはルドルフである。トライスは苦い面持ちで答えた。
「それも、俺にははっきりと分かりません。王宮の中をそこまで知りませんから……。」
「私が説明を受けたのは、ラドアルタが戦争の準備をしているのを、密偵が突き止めたということ。侵攻が始まれば、特に国境に近い地域は甚大な被害を受ける……だから先んじてラドアルタの力を削ぐため、極秘に計画を進めているということ。それだけです」
シナンはアルクェイドの様子をちらりと窺う。俯いているので表情は分からないが、彼は身を包む外套を、震えるほど握り締めていた。
「……にしても、分からないな」
それから、自分の考えを整理する目的もあって一度、感情を外に置いた。エイリーンとトライスがこちらを見ると、シナンは続ける。
「それを領主様が信じ、聞き入れたということがです。始まってもいない戦争の話など、余程の証拠がない限り信用されないと思うのですが」
エイリーンは何かを、領主とその男に聞かされたことの中から思い出そうとしているようであった。それが見つかったらしく、シナンに視線を戻す。
「私も、同じことを訊ねました。何か証拠でもあるのかと」
「回答はあったのですか?」
「はい。『近く、決定的な出来事が起こる』という、予言めいたものでしたが」
それはきっと領主ジェードにも、内容を知らされていないのだろう。だが、シナンとアルクェイドには想像がつく。
ラドアルタの国境付近における襲撃と、王子の死。
「予言、ねえ」
ルドルフが溜息混じりに零す。再び訪れようとした静寂を、エイリーンは少し小さくなった声で追い払った。