王都直轄地自体は、セルヴァニアの中でも小さい方の領地だが、そこには国のあらゆる富が集約されている。広大な農地がひしめき合う郊外を抜ければ、まずは首都を守る要塞が現れる。地方騎士団の城にも匹敵する規模のその要塞は、東西南北に一つずつ築かれていて、それらを繋ぐ城壁が首都と郊外を分けている。「イリオスヘルム城壁」とも呼ばれる、王都の象徴の一つだ。そこをくぐればいよいよ、馬車が四台は並べる幅の大通りに、白亜や煉瓦の鮮やかな外壁が連なる王国の首都である。
ここでは毎日数千、数万の人々が行き交い、食料も衣服も日用品も、はたまた芸術品や異国の品であっても、イリオスヘルムで手に入らぬものはないと言われている。更に、首都の中は民の生活区域、商業区域、また貴族の生活区域などが完全に分けられていることもあって、雑然とした印象も感じない。その他には精霊術師たちが年中行事を執り行う宗教施設や、観劇、賭博といった娯楽施設も多数揃っている。セルヴァニアの民の誰しもが憧れる都だが、日々を過ごし家族を養うために家を離れられない民には叶わぬ夢であり、また騎士でさえも、行くことの出来る者は限られる。
「そんなもんかぁ。俺なんか、一度で良いから住んでみたいけどなあ」
「……敢えて住む程の場所ではありませんよ」
クラットの粉がついた手をぱたぱたとはたきつつ、少年のような目をするルドルフにも、セストは何ら感情を示さなかった。
「……そこに生まれたから、そこに住むというだけです」
そんな二人の会話を、城門から少し離れた場所で、小動物のように注意深く聞いている影が一つあった。
肩からやたらと膨らんだ鞄を提げ、真新しい短弓に、小さな矢筒。栗色の髪はやや固い二つの三つ編みにされていて、小さな体躯と幼い顔貌を際立たせている。
城壁にぴったりと耳をつけるようにしていた彼女は、近づいてくる足音にも気付いていなかった。
「……ジュノちゃん?」
「っ!!」
大声を上げそうになった自分の口を自分で塞ぎつつ、彼女は声の主を振り返った。柔らかい茶色の髪をして、いかにも起き抜けという風情で立っている騎士が、そこにいた。左の頬にはまだ痛々しさの残る、青い痣がついている。
「え……えっと……」
「……ああ、そっか。一回くらいしか会ってなかったもんね」
彼は頭を掻きながら、お人好しそうな笑顔を浮かべる。
「第二隊のカムリって言うんだ。君のお兄さん……レイチェルの知り合い、というか」
「……あ、そうなんですか!?いつも兄がお世話に……!」
ジュノは小声で言いながら、ぺこぺこと頭を下げる。カムリは辺りを見回すと、自分も少し声量を落として、彼女に訊ねた。
「ところで、何してるの?」
それに対して、ジュノは露骨に顔を強張らせると、妙にはきはきとした口調になって答える。
「はい!実は、シナン隊長の付き添いに行くように、お……兄が団長に話してくださって!」
「……。」
「私、お父さんが狩人で、お母さんがいつもお父さんのために薬を作っていて……それで少し、薬草のことが分かりますから」
そんな彼女の様子を見て、カムリは堪えきれなかった風に、ふふっと笑った。
「な、何ですか?」
「いや、ごめんごめん。でも、その嘘はばれると思うなあ」
渾身の説明を瞬時に偽物と見抜かれたジュノは、全身の動きを止めてしまった。
彼女は弓騎士隊の中でも一等に朝が早く、毎日率先して演習場の掃除や、用具の準備をしている。昨日も城に戻ってからロブレンの襲撃の件を聞いたくらいだったのだが、いつもと同じ時間に起き、朝の日課をこなした。それから一度自室に戻ろうとしたところで、セストがしばらく城を離れるらしい話を、兄や他の隊員にしているのを聞いたのだ。
深い考えがあった訳ではない。ただ、自分の力を彼の役に立てられる、またとない好機だと思った。彼女は自分の寝台の下に隠してある、遠征や巡回の際に見つけた薬草の保存袋を引っ張り出して、鞄に詰め込んだ。それから、先の討伐で初めて使ったばかりの、弓と矢筒。あの時は怖くて狙いが定まらず、一つも当たらなかったが、毎日訓練しているのだからいざとなれば、という変な自信が湧いてきていた。
それが城門まで来て、酔いが醒めたかのように不安になってしまい、こうして身を隠していたわけである。
「だって、レイチェルは君のことが心配でたまらないみたいだし。遠征についていけなんて、空と地面がひっくり返ったって言わないよ」
「で、でも……。」
そう言いつつ、反論の材料が一切残っていないジュノは、俯いて口籠もってしまう。そんな彼女にカムリは、もう一つ小さくした声で告げた。
「……実は僕も、勝手についていこうと思ってるんだ」
いたずらっぽく笑うカムリに、ジュノは目をぱちぱちとさせた。
まだ左の頬は、笑う度にずきずきと痛む。彼は昨夜、ロブレン盗賊団のレベリオに暴行され、その後人質にされたのだ。傷の程度が比較的に軽く、簡単な手当てだけで帰されたのではあるが、カムリは悔しさでまんじりともせず、寝室を出て城内の散歩に出た。それでも気が静まらないようなら、一人で剣の素振りでもしようと思っていた。
そんな時、廊下でセドウィンが何か話しているのが聞こえてきた。相手は第一隊副長のルドルフだった。どうやらシナンは誰かを王都へ護送するため、しばらく城を離れるらしい。その会話が終わった後、カムリはたまらず飛び出して、セドウィンに頭を下げた。そして、自分も同行させてください、と言ったのだ。
セドウィンは驚いた様子だったが、静かに首を振り、駄目だ、と答えた。尚もカムリが食い下がると、それ以上は聞かないとばかりに足を進める。
お前は実戦もまだのはずだ。自分の身すら守れない人間は、足手纏いになる。
返す言葉もなく立ち尽くしているカムリの背中に、彼は最後に言い残して、薄暗闇の中に消えていった。
悔しい気持ちはこれからの鍛錬にぶつけるのが良い、と。
確かに、自分は盗賊に囲まれて、何も出来なかった。それだけなら、自分の心に収めることも出来ただろう。しかし今回は自分が不甲斐なかったばかりに、シナンが窮地に陥ったのだ。せめてその過ちを直接償うことが出来なければ、自分は「適度」というものを忘れ、体を苛めて壊してしまいそうだった。
カムリは大人しく寝室に戻った後、まだ誰も起きていない時間から自分なりに支度を始めた。そして、普段通りに朝食を取り、普段通りに訓練場に出かけるふりをして、こうして出てきたのである。
「だから、僕が説得するよ」
「……そ、そんな!もしばれたら……」
「その時はその時さ」
あたふたとするジュノに、それに、と続けて、カムリは握った拳を突き出した。
「尊敬する人の役に立ちたい気持ち、すごく分かるんだ」
その言葉に、ジュノは何か思うところがあったのか、小さく息を呑んだ。それから控えめに、同じように握った拳を、彼のに突きつける。
他愛のない会話もついに話題が尽き、ルドルフが再び立ち上がると、彼らに後ろから声がかかった。
「あれ?シナン隊長はまだですか?」
「……うん?」
ルドルフは首を傾げ、セストもそれが誰なのか分かると、姿を注視する。
「何だ、お前たちも来るのか?」
「はい!セドウィン団長から、いい経験になるからついて行くといいとのことで」
自信に満ちたカムリの口調は完全に、本当にそう言われた人間のものである。後ろに隠れるようにしていたジュノは、嘘を吐く技術に対してではあるが、僅かな感動を覚えていた。
「……お前は」
「あっ……えと……」
「レイチェル殿から指示があったそうです」
カムリが最も言いにくい部分を言ってくれたので、ジュノはすかさず前に出て、負けじと声を張った。
「あの、私!薬草の知識があるので……もし、どなたかケガをされても大丈夫です!」
「……。」
二人の様子に、セストは初めて、ルドルフと顔を見合わせる。
「本当かな?」
「……セドウィン殿に確認してきましょうか」
どきりとして呼吸を止めてしまうジュノとは対照的に、カムリは追い打ちのように被せた。
「もちろん、お邪魔はしません!もし何かあった時には、飛んで帰って緊急事態を伝えますので!」
だが、尚もセストは二人を凝視し、ルドルフも顎に手を当てたまま動かない。今までで一番重い沈黙が流れ、次に口を開いたのはセストだった。
「確かめてきます」
「そうだな」
「すまない、待たせた!」
万事休すかと思われた瞬間に聞こえたその声は、特にカムリの顔をぱっと輝かせた。城の入り口から真っすぐ歩いてくるシナンと少年――王子アルクェイドは、二人とも黒い外套を纏っている。
「これで全員か?」
「……。」
その問いにセストもルドルフも沈黙して、背の低い二人に視線を向ける。
「彼らは……」
「いや、セドウィンに言われたって話なんだがよ」
「はい!よろしくお願いします!」
セストとルドルフにこれほど疑われているのに、カムリは一歩も退く様子がない。ジュノは二度感心する。
「そうか。よろしく頼むよ」
「おいおい!」
シナンがあっさりと納得したので、ルドルフが焦って間に入った。
「いいのかよ。この子たち……多分、まともに戦ったことないだろ」
「まあ、そうかもしれませんが」
シナンは少し考えた後で、何と言うことも無さそうに返す。
「戦闘要員としてでなければ……。有事の連絡係として、身軽に動ける人間も必要ですから」
思わずそれを否定しかけたカムリに先手を打ち、釘を刺したのもまた、シナン本人だった。
「そういうことだ。自分の身は自分で守れば良いが……あまり率先して戦わないように。君たちは、危害を加えられないことを最優先に行動してくれ」
それが彼なりの、最後の通告なのだろう。ついてくることを止めはしないが、自分の望むことが出来る保証はどこにもないと。
二人は顔を見合わせたあと、シナンに向き直って頷いたので、彼は何気なく振り返って呟いた。
「ところで、君たちの馬は?」
「あっ……はい!直ちに準備します!」
カムリはまた元気の良い返事をしたが、幾らか声の張りがなくなったようである。ひとまず危機は脱したので、ジュノは内心で胸を撫で下ろしつつ、カムリの後について厩舎へ向かった。
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