「……ごめんなさい、よく分からなくて……」
シナンはうろたえた口調で答えた。この誘いを受ければ、彼はもう孤児院の子供ではない。また、騎士団の一員としても、ただ戦いを請け負うだけでなく、いずれこの領の全てを守る存在となる。
そんな急激な変化を何も考えずに受け入れるほど、シナンが鈍くはないことも想定していたが、セドウィンも必死であった。もし明日の朝、ロランが目覚めなくなっていたら、そんな悪い想像が毎晩のように浮かび、気が気ではなかったのだ。それでもセドウィンは、シナンに特訓を付けた時の二の舞にならぬよう、整然と、領主の息子になるとはどういうことかを説いた。
「ああ、戸惑う気持ちはわかる。領主を継ぐということは、新たな身分と義務が与えられるということだ。お前はこのヴェルクが豊かで、平穏な領であり続けるように考え、行動せねばならない」
「……。」
「だが、それはこの領の全てが、お前の手の内になるということだ。一人の騎士が救えるのは目の前の人間だけでも、領主になれば、苦しむ民自体を減らしていくことが出来る」
母との約束を果たすことを夢見るシナンの瞳は、その言葉に、ぱっと輝きを増した。しかし決断には至らず、また俯いて指を組む。
「まあ、すぐには難しいさ。次にセドウィンが来るまでに、答えを出しておいてもらえばいいじゃないか」
グレンの助け舟に、セドウィンはそれもそうだと納得し、その日はひとまずの勤めを終え、城へ帰還した。当時の騎士団長であったユーリにも、もしかしたら孤児院から養子を取れるかもしれない、と話をし、セドウィンはたったふた月を、数十年の月日の如く待ち侘びた。
そして彼は、満を持して、シナンからの返答を受け取ったのである。
「――本当に俺は、領主様の跡継ぎになれますか?」
勿論だ、とセドウィンは即答した。そこには子供たちや新米騎士に恐れられる鬼教官の面影は微塵もなく、主であり親友でもある人物に、ようやく希望を見せられる喜びに溢れていた。
もう、あれから十年以上経つ。シナンも立派な青年となり、ロランは当たり前のように、領主としての職務を果たしている。その当たり前がいかに尊いことかを、セドウィンは何気ない懐古の中に、いつも噛み締めるのである。そして、自分がシナンに話を持ちかけたことは間違いではなかった、とも。
実際の所、シナンがやってきてすぐ、ロランがみるみると元気を取り戻した訳ではない。失意と絶望の底にあったロランが新しい「息子」の存在を認めるには、それなりの時間を要した。
シナンにしても、ヴェルクを継ぐ存在となったことで、その身に背負わなければならなくなった咎がある。だが彼がヴェルクの領主に、騎士団に、領民に与えた光は、それらの出来事を差し引いても尚、セドウィンの心を照らし続けるのだった。

「そ、それではロラン様とシナンは、この件を知っていたのですか!?」
声が裏返りそうになっているセドウィンに対し、ロランは椅子に座ったまま、からからと笑っている。机の上にはスカルドがもう一度蓋を開けられ、その中身はセドウィンが握り締めていた。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。この情報は領主である私と、その代理人しか知ってはいけなかったのだから」
三日前、ユク村の赤屋根孤児院で保護された少年は、一人で西へ向かおうとしていたところを盗賊に襲われ、シナンに救われた。
シナンは彼を伴って城に戻り、領主ロランから、隣国への親善訪問に赴いていた王子が何者かの攻撃を受け、行方不明になったことを知らされる。しかし、彼が連れ帰ってきたその少年こそ、セルヴァニア王国の王子、アルクェイドだったのだ。
その事件が、アルクェイドを抹殺しようとするセルヴァニアの人間によって起こされた可能性がある、という話を聞き、シナンは彼を王都へ送り届けることを決意する。だが、もしもそれが本当であれば、彼らの旅路は命の危険と隣り合わせになるかもしれなかった。
「それは分かりますが……」
「しかし、もうシナンは事件の当事者なのだし、私の代理も務められないからな。私もむず痒かったんだぞ?」
ロブレン盗賊団の長、レベリオの襲撃から一夜明け、ヴェルク城はいつもの朝を迎え始めている。セドウィンはいつもより更に早い時間に起きて、シナンと少年――アルクェイドの分の、防具や貨幣、遠征に必要な道具類を渡してきた。もうそろそろ、彼は城門で待機しているはずの同伴者と合流している頃だろう。
「それで、いい人材は集まったかね」
「ええ。少数精鋭にはなりましたが、シナン本人の力量もありますから」
セドウィンは手紙を折りたたみつつ、ようやく旧友と話をする時の面持ちを取り戻した。
「……とはいえ、心配が無い訳ではありませんが」
「それはそうさ。もしものことなど考えればきりがない」
ロランは手紙を再びしまって、ヴェルクの紋章が描かれた右薬指の指輪を、労るように撫でた。
「正しい道であれば、精霊たちが味方をしてくれるさ。」
それはセルヴァニアでは一般的な考え方ではあるのだが、他でもない彼が精霊の加護を口にするということが、セドウィンには感慨深かった。
昨晩、セドウィンは王子を送り届けに出発するシナンに、同伴する者を選んで欲しいとロランに頼まれた。
アルクェイドによると、彼の命を狙って襲撃をかけた者たちは、王都騎士団に属す者である可能性があるという。
王都騎士団はセルヴァニア王国軍とも呼ばれ、国王を直接の主とする、極めて高い能力を持つ集団だ。もし彼らを敵に回すのなら、あまり大人数で行動させるのは悪手である。相手がこちらと同じか、それ以上の人数を投入してくれば、いくら信頼出来る団員たちであっても凌ぎ切れないだろう。優秀な団員をあまり多くヴェルク領から離れさせるわけにもいかないし、何よりそれで死者が出ることは可能な限り避けたい。
ロランとの会話を終えて書斎を出る頃には、セドウィンの中に、条件を鑑みた具体的な候補者が浮かび始めていた。そして廊下を十歩も進まないうちに、そのうちの一人は、自分から彼の前に現れたのだった。
「……団長。」
薄暗い空間にも翳ることのない端正な顔立ちと、感情を宿さない青い瞳。弓騎士隊隊長のセストである。
彼が候補に挙がった理由の第一は、その実力と、障害を排することへの躊躇の無さである。放つ矢は正確無比、加えて剣の腕も立ち、本気のシナンを敗北させる騎士団内唯一の存在だ。つまりシナンが自分より強い相手に遭遇した時、もしくは殺すことを躊躇って隙を見せたり、手が出せなくなった時には、その盾となり、剣にもなり得る。
それに、シナンは彼にアルクェイドを会わせて、顔に見覚えがないか確認したと言っていたので、事情は知っているのだろう。セドウィンが何か言うのを待たず、セストは続けた。
「私は同行します」
案の定、彼は自分の意思を伝えに訪れたらしい。セドウィンは頷き、それを受け取った。
「ああ、私もお前に頼もうと思っていたところだ。弓騎士隊を見る者はいるのか?」
「……他隊との合同訓練に出します。滅多に無い機会ですから」
質問に答えると彼は、用は済んだとばかりに、では、と言い残し立ち去っていった。セドウィンはもう慣れたが、あの態度が高飛車に映って、彼に反感や苦手意識を抱く隊員は少なくない。曰く、彼が元々暮らしていた場所で、彼が生きていくために身に着けたものだそうなのだが、それを知ったところでヴェルクの人間には共感が持てないのだろう。
考えが自分の中で完結しているので、団員たちの間では気難しいという評価が定着しているが、セドウィンは端的で分かりやすい部類の人間だと思っている。心配があるとすれば、彼は任務を果たすためであれば、自らを犠牲にすることを厭わないであろうことだ。確かに彼にはシナンを守って欲しいと考えているが、セドウィンには自分が一線を退いた後、代わってシナンの言動を諫められる存在になってほしいという個人的な願望がある。
そうするともう一人、シナンの旅に必要なのは、命の危機が迫った際に的確な判断が出来る人間だ。


「――にしても、参るぜ。セドウィンの奴、人の寝入りばなを叩き起こしてよ。いきなり『明日から遠征に行け』だぜ?」
中年の男は大あくびを一つして、先程から繰り返し述べている文句を、またつらつらと並べ始めた。
ヴェルク城の城門前は、ようやく霧の中が薄明るく照らされてくる時間帯で、人の気配はまるで無い。繋がれている四頭の馬が時折鼻を鳴らす以外、彼の声を掻き消す音は存在しなかった。
「商人の子供を王都まで送るって話だったが、まさかお前さんも一緒とはね。そんなに大仰なことなのかねえ」
「……。」
「クラットがあるぞ。味はついてねえけど」
「結構です」
セストがそう答えるのも予想済みだったのだろう、男は小さな荷物袋から取り出した非常食のクラットを、直行で口に入れた。
彼はルドルフと言って、ヴェルク騎士団第一隊の副長を務めている。セドウィンの補佐である。赤茶色の髪は切り揃えられてこそいるが寝癖はそのままで、非常食を出発前に頬張るその姿には、欠片ほども緊張感というものが感じられない。
「お前さん、何か知らないのか?」
まだクラットを呑み込まないうちに、ルドルフはそう訊ねた。セストは遠くを見る視線を微動だにさせずに、また抑揚のない返事をする。
「いいえ」
「へえ。ま、別にそういうことでもいいけどよ」
朝食を抜いたわけではなく、単なるつまみ食いだろう。ルドルフは城門の壁にもたれかかると、ずるずると地面に座って、また大きなあくびをした。
「しかし、王都かあ。どうだ?少しは懐かしいのか?」
ルドルフの口調は、それなりに打ち解けた同僚へのそれだが、話しかけている相手が相手なので、とんでもない隔たりがあるように見える。とはいえ、セストは特に彼を避けているわけではない。
「……懐かしい、とは感じません。一生戻らないと決めていたので」
セルヴァニアにおいて、「王都」という呼称が示す土地は二つある。一つは国王が直接統治する領地である王都直轄地。もう一つはその領内にある政治や文化の中心地、首都イリオスヘルムだ。