母はその指輪をきれいな革紐に通して結び、自分の首にかけた。仄かに赤みを帯びて輝くそれは、自分の指に嵌めるにはまだ大きかったのだ。
持っていていいの、と聞くと、母は笑って頷いた。
それは父さんが、お前にと託したものだからね。
彼女はその指輪をとても大切にしていて、外に出る時は失くさないよう家の中に置いていたし、それ以外では必ず、薬指に着けていた。この指輪はもう一つあって、それは父さんが持っているのよ、と話してくれたこともあった。父について語っている母の顔は幸せそのもので、しかし話し終わると必ず、寂しそうな微笑みに変わっているのだった。
いらなくなったの。
そんな母が自ら指輪を手放したことが、何だか不気味に思えて、そう訊ねた。母は自分を安心させるように、頭を撫でて言った。
ううん、母さんは今も、父さんが好きよ。
だけど、父さんに会いに行くのは、きっとお前だから。
どうして自分だけなのだろうと、何故か問うてはいけないような気がして。指輪を手の中に握り込め、わかった、と呟くことしか出来なかった。あの時の笑顔が強く記憶に残っているのは、彼女がそこに秘めた想いを、遂に知れなかった後悔からだろうか。
それからは指輪や父のことを、深く聞くことも憚られ、やがて時は過ぎて、あの冬がやってきた。
家の外に出ると、母は。
「……。」
今朝は、新しい一日を拒むような深い霧が、城とラースの町を包み込んでいる。
シナンは自室で支度をしている途中、何とはなしにその指輪を手に取って、そこに母との記憶を眺めていた。今なら、自分の指にもぴったりと嵌まるかもしれないが、試したことはない。騎士となってから、シナンはこの指輪をずっと、自室の机にしまったままにしていた。
孤児院に入ったばかりの頃は、指輪を母から譲られた時のまま、肌身離さず身に着けていたものだった。夜にはそれを握り締めて寝るのが癖になっていた程だ。というのもそうして眠ると決まって、同じ夢を見ることが出来たからである。
その夢は、毎回別の景色を映すのだが、不思議なことに一続きになっていることが分かるのだ。憶えている中で最初の風景は、一面が砂で覆われた世界の、月の夜だった。ある時は昼間だったが、絶えない風が地表の砂を高く巻き上げて、日の光を黄色や赤に染めていた。またある時は、砂の中で廃墟となった城や都のようなものが見え、戦いの気配がしたこともあった。
子供心に、きっとそれがもう一つの指輪の持ち主、つまり父親に関係するのだろうと思い、いつしか眠ることが心の拠り所にもなっていた。しかし、今の自分には父と呼ぶべき人間がいる。乗り越えねばならない戦いも、目の前にある。いつからか、この形見が見せる幻影は、ここで暮らすには邪魔なものになっていった。
もし自分に何かあれば、この指輪は人知れず古びていくか、自分の亡骸と共に葬られ、訪れる者もない水底へ沈むのだろう。母は何故、自分が父に会うのだと言ったのかも、それはいつになるのかも、知ることのないまま。
ロランは、一生に一度の裏切りを、まだ取っておけと言ってくれた。
かすかな期待をよそに、ひとつ意味深に煌めいて見せることもない指輪を、シナンは引き出しの中に戻す。無事にこの務めを終えたのなら、訪れるか分からない運命を気にかける時間も、きっと出来るはずだ。
今はただ、必ず帰ってくるという誓いを、その胸に立てて。


−T 白光の朝に−



赤屋根孤児院では、席について朝食を待つ五人の子供たちが、きらきらとした目でユウィンを見つめていた。それが自分に向けられているわけではないことに複雑な気持ちを抱きつつ、ユウィンは今朝届けられた手紙を読み上げ始める。
「えーと……まず、『アーロとカイへ』」
二人の男の子が、しゃきっと背筋を伸ばす。
「『午後の練習が途中になってしまったが、あの後もしっかりやっていたか?次に来る時までに、今回注意したことが出来るようになったら、新しい技を教えてあげよう。先生の言うことも、よく聞くように』」
起き抜けなうえに腹ぺこであるにも関わらず、男の子たちは目を一回りも大きくして、収まりきらない喜びで両腕を振り上げたり、拳を握ったりしている。ユウィンは続けて、身を乗り出す女の子たちの熱視線を受けつつ、二枚目の手紙を上にした。
「『エリン、カナ、マリーへ』」
「ずるいなあ。エリンはいっつも最初なんだから」
普段はそんなことで不満の声を上げたりしないのだが、想い人からの連絡が特別なものであるのは、大人だろうと子供だろうと変わらないらしい。
「『今回は、話をする時間が取れず、申し訳ない。次に訪ねた時には、君たちが寝るまで付き合うから、どうか許してほしい。会うのを楽しみにしているよ。』」
「……どうしよう、寝るまでだって!」
「朝まで起きちゃうかも」
「ねえ、次はおやつを作ってみない?こないだ手伝ったおうちで、おいしいのを食べたの!」
女の子たちは女の子たちで、嬉しくてたまらないという風にお喋りを始めた。書いてある通りに読みはしたが、その日になってから後悔しないかと、手紙の主が心配になる。差出人は勿論、シナンだ。
あの少年が孤児院から姿を消した事件は、二日前のことになる。シナンは孤児院の職員たちにも、別の手紙を書いてきていた。それによればあの少年は無事に見つかって、これからどうするかは書いている時点で決まっていない、ということである。
報せを聞いたユウィンとマーサが胸を撫で下ろす傍ら、グレンはつくづく、彼には人の心を開かせる何かがあると感じていた。
それはひょっとしたら「気のせい」かもしれないし、ただ、彼の心身の強さによるものなのかもしれない。だがシナンという人間の根底にある何かが、風貌とか技量ということよりも先に、彼を彼たらしめているような、そう思うことがたまにあった。
それが欠けていれば、今のヴェルクは存在しなかった――という考えは大げさかもしれないが、セドウィンが彼をヴェルク領主の養子に、と思い付かなければ、多くの人々の運命が変わっていたことは確かだろう。
ロランもまた、彼の持つ「何か」に触れたのだ。シナンが英雄と称されるのは何も、誰もが恐怖していた盗賊団の首領を、若くして討ち取っただけが理由ではない。

それは、シナンが孤児院の一員となってから、三年が過ぎた日のことである。指導に訪れていたセドウィンは久しぶりに、シナンをグレンの部屋に呼んだ。その頃のシナンからはすっかり、孤独で内向的な雰囲気も抜け、持ち前の正義感や誠実な性格がはっきり表れるようになってきていた。
部屋の扉を閉じたシナンは椅子に座ると、二人の顔をちらちらと窺った。セドウィンがいつにも増してしかめ面をしているので、叱られると思ったのだろう。
「……大切な話があるのだ」
セドウィンは身を少し屈めると、シナンの目を覗き込んで言った。
「シナン。ヴェルク領主の息子になる気はないか?」
それを聞いたシナンは、難解な謎かけでもされたような顔になり、固まってしまった。ヴェルク領主。この領地と、そこに暮らす人々を守り、また騎士となれば、自分の主人にもなる存在。それは知っていたが、シナンにはその質問の意味が、よく分からなかった。
「どうやってですか?俺は領主様の子供じゃないのに」
大真面目にそう訊ねてきたので、グレンは小さく噴き出して、セドウィンから説明を引き継いだ。
「実はね、シナン。今の領主様には、子供がいないんだ。……きっと、これからもうけるつもりもない。そうすると、次にこのヴェルクを治める人がいなくなってしまう。領主がいなくなれば、ヴェルクはばらばらになって、別の領の一部になってしまうんだ」
「……。」
「もし君が嫌ではなくて、領主様も君を認めてくれれば、血は繋がっていなくとも、君は領主様の跡継ぎになれる。君のしたいと思っていることを考えれば、悪い話ではないよ」
グレンは柔らかい話し方に努めていたが、隣でそれを聞くセドウィンの険しい表情が、事の真相を語っていた。ヴェルク領主ロラン=ハーメルン。彼の身に起きた出来事は、シナンに聞かせるにはやや早いのではないかと、二人は案じていたのである。
その当時から、更に遡ること七年前。ロランは騎士、従者、領民たちに祝われながら、それまで侍女として彼の身辺を世話していた、一人の女性を妻に迎えた。病気がちで、騎士団長を務めることも辞退していた彼にとって、彼女の存在はなくてはならないものであった。それは誰もが認める幸福な結婚であったが、ただ一つ、二人の間には子供が出来なかった。
自分が病弱なせいであろうかという後ろめたさもあり、ロランはヴェルク領内だけでなく他の領からも、薬師や精霊術師を探し、知恵を借りた。結婚から三年間、薬、まじない、儀式、様々な方法を試し、そうしてようやく妻の体に、新たな命が宿ったのである。
しかし、精霊たちは尚も、残酷な運命をロランに突き付けた。
待ちに待ったその日。新たな命がようやく姿を与えられて、ロランの前に現れるはずだった。産声を心待ちに祈りをささげていた彼は、部屋にやってきた薬師と産婆たちに、出産は成功しなかった、と告げられた。
死産だった。彼の妻は、まだ生まれ来ぬ子をも連れて、この世を去ってしまったのだ。
ロランを襲った悲しみや苦痛は、憶するにも余りあるものだった。夫婦となる前から連れ添った妻、一度触れることすら叶わなかった我が子、二人の葬儀を終えた彼は、抜け殻のようになってしまった。
領主としての仕事には殆ど手を付けず、城の外に出ることもなくなり、時には寝台から降りもしないで、虚空を見つめている日さえあった。元々食べる方ではなかったが、更に食が細くなり、体の不調を訴えることも増えた。親しい人間とも口をきかず、たまに話したと思えば、これ以上迷惑をかけたくない、殺してほしいという内容であった。
ロランの状態は当然、公にはされていなかったが、いつしか騎士たちの話が噂となって城下町に伝わり、そこからヴェルク全体に広まっていった。騎士たちも領民も、ヴェルクの未来に不安を感じつつ、打つ手が無い状況だったのだ。