しかし、セルヴァニアの民が最も恐れたのは、破壊そのものではなく、魔法によって発生した大量の「瘴気」だったのだ。
瘴気は、セルヴァニアにおいて、「ギムドの魔法の副産物」として知られている。それは黒い霧のように空中を漂い、水を毒し、動物の命を蝕んだり、理性を奪って凶暴な性質へと変えてしまう。「黒霧戦争」という名前も、言わずもがな、この瘴気を由来として付けられたものである。
記録によれば戦争で滅んだギムドの民は、この瘴気への対処方法を、長く問題としていたらしい。一方でセルヴァニアの民は、ギムドが侵攻してくるまで、瘴気というものの存在を殆ど知らなかった。その違いはひとえに、二つの国が全く異なる魔法の使い方をしていたが故のものだ。
セルヴァニアで魔法を使う者は、精霊使い、或いは精霊術師と呼ばれ、集団の中に僅かしかいない選ばれた人間である。彼らは「精霊と心を通わせ」、自分をその「場所」の一部とすることによって、一時的に自然を意のままに操ることができる。彼らは周囲に川や湖があって、水気に恵まれている場所では、氾濫にや浸水を防ぐために水を操作した。風通しのいい平原や山間に位置する村では、突風や竜巻などを防ぐために風を操作した。このように、住んでいる土地に発生しやすい災いを未然に防ぐことが、魔法の本来の使われ方だった。
また、魔法を使うには、「場所」に「自分」を合わせるという感覚が必要とされる。生まれながらそれを備えている人間もいるし、ある程度の練習によって身に着けられる者、同じように鍛錬をしても数十年を要する者、全く身に着けることが出来ない者と、人によって素質の持ち方は様々だ。
ともあれ魔法とはある土地に住む人間が、土地の特徴と上手く付き合いながら生活するための術であり、セルヴァニアでもギムドでも、かつては同じ使われ方をしていた。 だがセルヴァニアと違い、ギムドはその術を、誰でも、何処にいても使えるようにならないかと考えるようになった。
そうしてギムドの魔法使いが辿り着いたのが、特定の植物や鉱石を利用した、魔法の道具――法具と呼ばれるものだ。この発明によって、それまで素質が無いとされていた人間も、簡単に魔法を使うことが出来るようになった。更に、水源のない場所にも水を引き、命の危機に際して瞬間的に突風を起こしたり、炎を放ったりすることも可能になり、ギムドの人々の生活は一変した。
伴って彼らを悩ませたのが、瘴気の発生である。瘴気は元々、大規模な破壊――主に戦争などに伴って生じるものであって、古い時代には文明の崩壊をも招いたとされている。それが魔法によって現れるようになったのは、ギムドの魔法が「場所」を無視したものになりつつあったからだと、魔法使いたちは考えていた。例えば、風が全くない密室で突風を起こしたり、快晴の乾いた空の下で霧を出したりといったものだ。つまり「そこで本来起こるはずのない現象」を起こすことは、その「場所」を作り出す自然にとって、争いを起こされるにも等しい負担なのだと。
当然、セルヴァニアへの侵攻において魔法が使われた際にも瘴気は発生したが、その多くは戦いが終わる頃には浄化され、草原の民の生活にはほぼ影響を与えなかった。ギムドの軍も瘴気を無視して魔法を使い続けることが自分たちの首を絞めると分かっていたので、草原においては主に風や水といった魔法を使い、炎や雷といった負担の大きな魔法は、要塞を攻めるような場面でしか用いなかったためだ。
それなのに、この争いが瘴気の存在に象徴されているのは、それこそが戦争を終結へと導いたものだからである。
草原の民の反撃を受けたギムドの軍は、既に力が枯渇していたこともあって、みるみるうちに戦線を押し戻されていった。やがて、草原の民がギムドの領土内に侵入してくるという時、彼らは相打ちさえ覚悟して、ある魔道兵器を発動させた。あらゆるものを焼き尽くす、最強の炎の魔法。しかしその発動は失敗に終わった。炎が平原を焼き尽くすことは無かったが、その代わりに膨大な量の瘴気が、ギムドの領地を包んだのである。
まず、瘴気は人々の体を蝕み、衰弱していた兵士たちの命を奪った。ギムドの国内にいた民は避難を試みたが、水や食糧も毒されていたため、多くはその道中で倒れてしまった。セルヴァニアの戦士たちは瘴気を浴びる寸前で踏みとどまっていたものの、それによって苦しみながら死んでいくギムド兵の姿を目の当たりにし、彼らはこの戦争において何より恐ろしかった存在を、その名に残し語り継ぐことにしたのだった。
ギムドの民で生き残ったのは、捕虜としてセルヴァニアの国内に囚われていた兵士たちだけであった。彼らの故郷を覆った瘴気が浄化され、人の立ち入りが可能になるまでには、優に五十年の歳月を要した。それからセルヴァニアは捕虜たちを祖国に帰し、またギムドの跡地をセルヴァニアの一部として接収するべく復興事業を開始したのだが、この事業こそが、二国の次なる因縁の始まりとなってしまった。
セルヴァニアから遣わされたのは、ギムド跡地の統治者となることを命じられた数名の貴族たちだった。彼らは捕虜だったギムドの人々と共に整地や生活拠点の建造を進め、その中で発見された魔道兵器の回収も、居住区域の整備も、順調に進んでいることを国に報告していた。
しかし、その実態は凄惨なものであった。土地勘や魔法の知識を持つ協力者として労働に従事していたはずのギムドの人々は、奴隷同然の扱いを受け、少しでもセルヴァニア人の意に沿わないことをすれば過剰な体罰を与えられていた。魔法を使うことも禁止され、もし使用したことが分かれば体罰か、過酷な労働を強制された。また、セルヴァニア貴族は自分たちの住む場所さえ建造されれば、ギムドの民の住居などすっかり放置していた。貴族たちが豪奢な館に住み、毎晩酒を酌み交わしていた一方で、ギムドの民はいつまでも仮小屋の狭い床に集まって眠り、当然、満足な食事も与えられてはいなかった。
そんな彼らの様子に心を痛めたのが、セルヴァニア貴族の一人であったサディアス=ラドアルトであった。彼はギムドの民に対し食糧や衣類を配り歩きつつ、その窮状を国に密告しようとしていたが、他の貴族たちに感付かれ処刑されることになった。しかし刑が執行されるまさにその時、抑圧されていたギムドの民が、魔法を使って彼を救出したのである。その事件から、押し込められていた不満が爆発するかのように、各地でギムドの民の反乱が起きた。貴族の館は襲撃され、彼らは本国へ逃げ帰らざるを得なくなって、ようやく国にその惨状が知れ渡ったのだ。
当時のセルヴァニア王アルトールは自国の非を認め、ギムドの人々への行ないを心から詫びると共に、セルヴァニアからの独立を要求する彼らの意思を認めた。こうしてギムドの民は在りし日の故郷を再建するための力を得、その新たな国には、自分たちに独立の契機を与えてくれた人物の名を冠したのであった。
しかしセルヴァニアの貴族たちは彼らの独立を認めるに当たって尚、条件を付けることを王に進言した。まず、これまでに発見したギムドの魔道兵器は全て、セルヴァニアが保管し続けるということ。他には、ラドアルタが領土の外で軍隊を活動させることを禁じ、セルヴァニアで生産した農産物と引き換えに、毎年一定の数の研究材料や資産を納めてもらうというものだ。それはラドアルタが第二のギムドとならないよう力を制限し、セルヴァニアの民を安心させるためという、真っ当な目的を装って提言された。 ラドアルタの中には今も、その条件を撤廃させなければ、真の独立を果たしたとは言えないと主張する者が多く存在している。まだ自分たちをギムドの民として認識していた彼らには、確かに一方的な争いを仕掛けたことへの罪の意識があった。だがそれも厳密には、ギムドの支配層にあった人間が決めたことであって、実際に戦いに赴いた兵士たちはそれに抗うことが出来なかっただけだ。それに、セルヴァニアはギムドの民を協力者とする約束を破り、奴隷として扱ったのだ。
このような経緯があってラドアルタの人々には、セルヴァニア人、特に王族や貴族といった身分に対しての不信感が強く残っているのである。

「ああ、聞いたことはある。確かに、恥ずべき事件だと思ったよ」
「……ラドアルタの殆どの人々は、セルヴァニアという国が信頼に足るとは考えていません。かといって、条件を今すぐ全廃すれば関係が修復されるわけでもない。だから今は、国の代表である我々王族が、彼らに友好と誠意を示す機会を無駄なく使わねばならなかったのです」
結局、アルクェイドはほぼ独断で、親善訪問を行なうことを取り決めた。ラドアルタと各地の領にそれを実施する旨の連絡をし、護衛として同行する精鋭を揃え、総勢四十名の親衛隊と共にラドアルタへと出発した。
行路は定めていた道程を大きな変更もなく進み、三日間の滞在となった現地では毎日、会議や式典、宴が開かれた。その途中で妨害や襲撃事件が起こることを、ラドアルタ側も親衛隊も危惧していたのだが、予定されていた催しは順調に終了していき、親善訪問は終始穏やかな雰囲気のまま幕を閉じた。アルクェイドにとって初となる、ラドアルタでの外交活動は、ひとまず成功に終わったのである。
それが親衛隊の気の緩みを招いたのも、原因の一つではあっただろう。帰国の足並みも軽い隊列が襲撃を受けたのは、首都ミランニを出発して二日目、ラドアルタの国境を越えた直後のことだった。
「彼らは、まず隊列の後方を攻撃しました。注意がそちらに向く間に、別の数名が、私の居場所を捉えていたようです」
アルクェイドは隊列から脱出することに成功すると、親衛隊に守られながら、セルヴァニア国境の砦までを駈足で向かった。しかし半ばで道を塞がれ、やむなく山地の方へと進路を変更した。明らかに自分を殺そうと追ってくる彼らの足から必死に逃げるうち、自分は何処にいるのかすら分からなくなって、偶然目についた山中の廃屋に飛び込んだことまでは憶えている。
記憶はそこから曖昧になって、気が付いた時には、自分はユク村の孤児院だった。
「……それが数日前、私の身に起こった全てです」
仄明かりの書斎に、再び沈黙が降りる。ロランは口元に指を当て、頷きながらそれを噛み砕いているようであった。シナンは、セドウィンの方にもちらりと目をやった。相変わらず厳めしい顔つきだが、幾らか刺々しさが収まったようにも見える。
「……なるほど。だがそれだけでは、君を信用するには少し足りないな」
思案の後、ロランはアルクェイドに向けてそう言った。何か、聞きたいことがあるのだろう。
「君が移動の様子、式典の様子、襲撃の様子をどれほど細かく話してくれても……ここにいる誰も、本当はどうだったかを知らないのだからね」
彼の言葉はもっともで、シナンも方法はこれしかないとアルクェイドを説得しつつ、重々承知していたことである。
だからこそ。
ロランは、私が言いたいのは、と続ける。
「それなら、君は真っ先に、自分の顔を知っている人間に助けを求めるべきだったろう?」
彼が王子であることを信じるとしても、シナンにはずっと不可解だった。彼が何故、一人で行動することにそこまでこだわっていたのか。
自分を襲った者たちの正体が分からず、その影に怯えていたというなら、尚のこと信頼できる人間を探し、その傍にいるのが得策だ。だが、王都よりもずっと近くにある、国境沿いの砦にさえ、彼は足を向けようとしなかった。その上、ここから王都までの道をたった一人で戻る、などという無理を押して、ヴェルク騎士との接触までをも避けたのである。