「そんな……早く避難を……!」
「いや、ここを攻められるほどの人数じゃない。今、シナン様が一対一で相手をしている」
戦っているのは、やはり彼であるらしい。
盗賊一人を打ち負かすなど、彼ほどの力量があれば造作も無いことに思える。しかしその通りであれば、あの時のように一瞬で勝負がついて、とっくに追い払われているはずだ。
何より彼のことをよく知っているはずの、この城の人々が、明らかに不安を抱いている。つまりその盗賊にはある程度、彼と対等に渡り合う力がある。
それに、その頭領は初めてここに来た訳ではなさそうだ。シナンがどういう人物かを知らずに戦いを挑んでいるはずはない。少なくとも、その相手には勝算があるということだ。
乾いた喉で唾を飲み、扉を閉じようとすると、話の続きが耳に入った。
「でも、どうしていきなり……?」
「分からない。昨日捕まった手下を返せとか言っているらしいが」
絶えず胸を打ち続けていた鼓動が、止まったような錯覚が起きた。
それは、自分を襲ったあの三人のことだ。
扉を閉めるのも忘れて、口元を抑える。その盗賊団と、この領地との詳しい関係は、今の話だけでは分からない。ただ一つ確かなことは、昨日の自分が一人で出歩いたりしていなければ、シナンも彼らを捕らえてはいなかったことだ。彼が今、戦う必要もなかったのだ。
「……大丈夫よね、シナン様なら……」
「……シナン様は、盗賊であっても殺さないと心に決めている。だが相手は殺すつもりだ」
「そんな!負けるっていうの!」
「い、いや、そんなつもりは……。」
とにかく一人になりさえすれば、無関係な人を遠ざけられると思った。
それなのに、自分を助けた人間に礼すら出来ないどころか、起こらないはずだった事件を、自分のせいで起こしてしまった。
現れようとした涙の名前が、今なら分かる。きっと、これは悔し涙だ。どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。歩くことも、戦うことも、話すことも出来ず、人に面倒を押しつけてばかりなのだろう。
自分が臆病なせいで。自分が愚かなせいで。自分が弱いせいで。
その時、かつて師から受けた言葉が、不意に彼の中に蘇った。
(後悔とは、全てが終わってから初めてするものです)
(悔しいとお思いなら、ただ一心に、今すべきことを成し遂げなさい)
「…………っ」
目元をぐいと拭って、エイドは壁に手をつく。
まだ何も、終わってなどいない。始まってすらいない。
今の自分がするべきことなら、間違いなく一つある。それなのに、この部屋で一人、悔し涙など流している場合ではない。
おぼつかない足で立ち上がり、希望の象徴をその手に握って、彼は扉に手を掛けた。
恩人すらも助けられずに、この領や国が守れるものか。
「――――!!」
腕に生じた違和感に気を取られた隙に、巨大な刃が唸りを上げ、その鼻先を掠めた。
反応があと少し遅れていたら、顔が欠けていた。低い姿勢で構えたまま、シナンはレベリオの出方を待つ。
「へえ、今日は手加減してくれるじゃねえか」
無論、そんなつもりはない。移動で溜まった疲れなど戦いの後のそれに比べれば微々たるものだが、何度も全力でぶつかっている相手には分かってしまうもののようだ。
シナンは面白い冗談でも聞いたかのように笑い、レベリオに答える。
「お前が強くなったんじゃないのか?」
「うるせえ!!」
途端、レベリオの表情はその逆に、笑みから憤怒へ変わる。脳天を二分する勢いで下ろされた斧をかわし、すかさず死角に回り込むが、振り向きざまの追撃を受けそうになって距離を取る。二人を囲む観衆の輪は、戦いが始まる前より二回り以上も広がっていた。レベリオの攻撃が大振りのため、近くにいると巻き添えを食うからだ。
「ちょろちょろ逃げ回りやがって、面白くねえんだよ」
「……。」
「ヴェルクの英雄なんだろ!?ちょっとは攻めて来いや、殺すつもりでよ!!」
レベリオの怪力をまともに受け止めてしまったことで、通常は入らないはずの負担が掛かっている。まだ武器を落としてしまうほどではないが、これ以降はどれほど挑発されても、回避に徹するべきだろう。相手の体にも限界が来るのを辛抱強く待つこと、それだけが勝利だ。
「……殺さないさ」
「あぁ?」
「もう殺さない。この領の未来の為にも」
シナンが「白狼騎」という異名を受け、その力を人々に知らしめた、六年前の決戦。
彼はそこで、中衛の部隊に配属され、敵部隊の進行を食い止めていた。しかし、頭領オルドス率いる本隊が前進を始めたとの報せを受け、既に大きな損害を受けていたシナンの隊は退却を命じられた。それは当時の騎士団長、領主ロランの妹でもあるユーリ=ハーメルンの指示であった。兄の心の支えであり、これからのヴェルクを担う支柱でもある彼を、ここで失うことだけは避けねばならなかったのだ。
セドウィンは後方支援を統括し、退却してきた部隊の状態や、逐次報告される内容からの戦況分析、また重篤な怪我人への処置を行なっていた。シナンのいる部隊が退却してくると聞いた彼は、内心で安堵していたのだが、いざ彼らが帰ってくると、そこにシナンの姿が無い。
隊の者に問い詰めると、彼は途中までついてきていたが、一人で戦場に引き返して、呼び止めても聞かなかったのだという。セドウィンはよほど、自分が彼を連れ戻して来ようかと思ったし、無事に帰ってきたなら、彼を目一杯叱りつけようと思っていた。
だが、奇跡的に生還し、しかも英雄の称号まで得た彼に、セドウィンはそれが出来なかった。シナンは明らかに憔悴し、その面持ちは今まで見たことも無いほど鬱屈としていたからだ。戦いの数日後、セドウィンは彼を呼んで、二人きりで話をした。その時シナンは一言目に、大変なことをしてしまった、と呟いた。
彼は、オルドスを殺すつもりなど無かった。それが盗賊たちとの関係を、根本から変えてしまうと理解していたからだ。ところが戦場では、次の瞬間には死んでいるかもしれないという恐怖、仲間を奪われた怒りに、理性を奪われてしまったのだと。
オルドス隊の隣で戦っていたレベリオの隊が、ヴェルク騎士団の攻撃を受けた時、オルドスは初めて隙を見せた。この相手を殺すには今しか無い、と思った。そして、手にした槍がオルドスの体を貫いていると気付いたとき、我に返って、また別の恐怖が押し寄せてきた。城に戻ってからもひたすら、シナンはまるで天罰を恐れるように、オルドスが生きていることを祈った。結局、その思いが届くことはなく、数ヶ月後には彼の息子であるレベリオが、名指しで決闘を挑んできた。
周囲は受けないように言ったが、シナンは騎士団からの犠牲者を一人も出さないと約束し、決闘に応じることにした。無人の平野で向き合ったシナンとレベリオの間には、既に何十年もの月日を経た因縁があるようだったという。
レベリオはまず、シナンが逃げなかったことを認め、父の仇を討つと宣言した。
すると、シナンは一人で前に進み出て、レベリオに告げた。
あなたの父の命を奪ってしまったことを、私は強く後悔している、取り返しのつかないことをした、と。
シナンが戦いの中で殺した人間は、オルドスが最初の一人だったのだ。そして、それは自分が騎士であるから罪に問われないだけだなのだと、シナンは分かっていた。だが自分にも背負うものがある以上、罰を受けようとすれば、レベリオに許しを乞うしか方法がなかった。
対してレベリオに、シナンのその言葉は、この上ない侮辱として響いた。
オルドスは、ロブレンの民の誇りだった。彼はそれを抱えたまま、野心を失った戦士である騎士団に戦いを挑み、名誉の死を遂げたのだ。
その偉大なる戦士に、誇り高き王に、殺してすまなかった、などと。
父を殺した人間が、若き英雄としてその名を馳せていることが分かったのは、彼の死から数日後のことだ。
それを聞いたときレベリオは、自身の体の中に、激しく猛る怒りの炎が巡るのを感じた。それは自分個人の感情ではないと思った。血を分けた同胞、自分たちを生かしている精霊たち全ての思いが、今、この体に集っているのだと。
この力があれば、負けはしない。必ずや、父の仇を取ってみせる。そう息巻いて、彼は王として初めての戦いに臨んだ。そこでシナンの言葉を聞いたとき、遂に炎は天をも焦がすほどに燃え上がって、レベリオを死をも恐れぬ戦士へと変えた。
しかし戦いの結果を見れば、それは惨憺たるものだった。
自分を信じた多くの仲間たちが捕らわれ、自分はあの英雄に、何一つ太刀打ち出来なかった。
怒りの炎は、恨み、憎しみ、悔しさ、様々な感情を取り込んで、彼の体と心を昼夜苛み続けた。数日の後、やがてそれは静謐な闇に変わると、未熟な己の魂を、はっきりと曇りなく映し出したのだ。
このままでは、王の血を継ぐことなど出来ない。
何故なら、父の仇討ちなど、通過点に過ぎないからだ。自分は父が成し遂げられなかったこと、この草原の覇権を取り戻し、一族の誇りを証明すること、それを達成しなければならない。
そのためになら、どんな痛みや苦しみにも耐えてみせる。父の死と共に、自分の器を見限って、この地を離れた人間も少なからずいた。だが、残ってくれた者の方が、それよりもずっと多かった。
そんな仲間たちの希望を、期待を、裏切らないためにも。
「――ふざけるなぁっ!!」
レベリオの一喝は、静まりかえった闇夜を震わせ、淡々と流れていた時を止めた。
「……領の未来?後悔?そんなもん、どうだって良いんだよ!!」
これまでも固唾を呑んで見守っていたセドウィンが、剣に手を掛ける。
「俺はてめえを殺すだけだ!ロブレンの王としてな!つべこべ言わずに戦えよ、なあ!?」
シナンはその場で俯いて、仲間に見られないように目を伏せる。償うことの出来ない過ちは、時が経つほどにその重さを増していく。だからといって、傷付けられた仲間を前に、レベリオの要求を受けることなど有り得ない。
「……殺し合いがしたければ、そうしろ」
再びレベリオへ向ける視線は、尚も曲がらない信条を宿し、レベリオの挑発を撥ね付けた。
「今のお前は、ヴェルクの騎士を傷付けた罪人だ。俺もお前を許す気はない」
「……は。やっと本気になったってか」
レベリオは軽く肩を回し、首の骨を鳴らす。今までと違う緊迫感が漂った後、二人は同時に、弾かれるように駆け、止まった時は急速に動き出した。レベリオの攻撃は、鉄の塊を振るっているとは思えない速さで連続して繰り出され、それをシナンはわずかに後退しながらいなす。振り上げた斬撃が空を切り、落ちてくる死の一撃を、両手で剣を支え受け止めた。
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