「一緒に探していこうじゃないか。君が求める強さというものを」
シナンが大粒の涙を流しているのを二人が見たのは、今のところそれが最初で最後である。
その出来事を機に、シナンは少しずつ、他の子供たちと打ち解けるようになっていった。すると彼が元々備えていたのであろう、弱っている者に寄り添おうとする気持ちや、信念を通そうとする気持ちが、少しずつ表に出るようになっていった。同時期からセドウィンも、幾らか表情が柔らかくなって、子供たちに親しまれるようになったのだが、それはまた別の話である。
とかく、セドウィンはこの時からある程度、シナンがどんな騎士となるのかを想像していた。彼はきっと強く、誠実で勇敢な青年に成長するだろうが、その素質ゆえに場合によっては、茨の道を歩むことになるかもしれないと。
そして、数年後、セドウィンの懸念は現実となってしまった。
「狂戦士」と呼ばれ恐れられた盗賊の長、オルドスがヴェルク領に仕掛けた戦いで、シナンはオルドスを討ち、その名と実力を世に知らしめた。
しかしそれはシナンにとって、消えることの無い後悔と、罪の意識の始まりであったのだ。


城門を隔て、二塊の集団が、距離を保ったまま睨み合っている。張り詰めた空気が、彼らに声を発することを許さないようだった。
門の内側にいるのは言わずもがなヴェルク騎士たち、今も異変を察して寝室を出てきた者たちで人数が増え続けている他、城壁の上にも待機している者たちが見える。万全の警戒を敷いた彼らとは対照的に、余裕の面持ちで構えているのは、十数名ほどの盗賊たちである。彼らは縄で巻かれ、身動きの取れない騎士を三人捕らえていて、うち二人はかなりの暴行を加えられているようだった。
その先頭に立つ男――屈強な体格と、その全てを覆う無数の古傷に刺青、獣のような目つきをした彼が、ロブレン盗賊団の首領、レベリオである。
彼は傷の浅い一人の騎士を片腕だけで立たせて、退屈そうに空いた手足をぶらぶらとさせていた。
「……待たせるねえ」
そう呟いた直後、行く手を阻むように集まっていた騎士たちが左右に分かれ、道を開けた。現れた二人の影を認めると、レベリオは口角を釣り上げ、尖った歯を見せた。
この魂に、強い怒りと共に焼き付けられた白い髪。その騎士もまた、レベリオと、彼らが捕らえた仲間の姿を目にして、明白な敵意を向けた。
「……貴様ら、何の用だ」
隣に立つセドウィンが低い声で問う。
「またまた、分かってんだろ?」
レベリオは笑っているように見えるが、明るい気持ちがあるわけではない。むしろ、彼は苛立っていた。体を意味も無く揺さぶられたカムリが、小さな呻きを上げる。
「昨日だったか?働きに出てたうちの男どもを拉致したそうじゃねえか。返してもらいに来たんだよ」
「何……?」
シナンは説明する代わりに、セドウィンの一歩前に進み出た。昨日捕らえてショーレ砦に連れて行ったあの三人は、まだ城には到着していない。しかし、それを明らかにすれば、彼らは要求をどのように変えるか分からない。
「彼らはまだ刑を受けていない。自由にするのはその後だ」
「刑だと?」
尖った歯が笑うような形をしたまま、ぎりぎりと鳴らされる。
「その日の食いぶちを探しに出るのが悪いっつうのか?」
「彼らは旅人に暴力を揮おうとした。たとえお前たちの暮らしが懸かっていても、ヴェルクにいる人間が傷付けられるのなら容認は出来ない」
それでも退く姿勢を見せないシナンに、レベリオはわざとらしく大きな溜息をついてみせ、俯いた。
「……相変わらずだなあ」
「……。」
再び顔を上げると、裂けるほどに見開かれ血走った両目がシナンを刺した。怒りとも憎しみともつかない狂気じみた感情が、全体に張り付いている。
「いちいち癪に障るんだよな、てめえの態度は!さも自分たちが正しいような言い方をしやがる!」
対してシナンは、最初にレベリオへ向けた眼差しを変えようとはしない。
「王を……親父を殺した時もそうだった!俺たちは支えを失って、てめえは英雄扱いだ!さぞ良い気分だろうな!?」
「貴様!」
先に食いかかったのはセドウィンだった。
「黙っていれば勝手なことを――」
「てめえには話してねえ、下がってろ!!」
「……。」
六年前。
「狂戦士」オルドスの死と、「白狼騎」シナンの誕生。
盗賊と騎士との関係に一つの区切りを付け、そして、新たな戦いの歴史が始まった日。
「……良い気分なわけは無いだろう」
その時、シナンの言葉に、かすかな激情が滲んだ。
「……彼を殺してしまったのは、俺の弱さだ。そしてそのせいで、お前たちとヴェルクの関係が変わってしまった。だから――」
「今はなるべく殺さないようにしています、ってか?」
レベリオの声は呆れたような調子に変わると、シナンの台詞を遮った。
「うちの戦士をこれから何人生かそうが、親父が帰ってくるわけじゃねえ。だからヴェルクが滅びようが、騎士がいなくなろうが、てめぇは永久に俺の――俺たちの仇だ」
まくし立てるように喋った後は、また元の、笑いに似た表情に戻る。
「さて、本題に入るか。……うちの戦士を返せ。そうすりゃ、こいつらも解放してやる」
「返さなかったら?」
「返してもらえるまで、うちで見てやるよ」
刹那、カムリがシナンへ、懇願するような視線を向けた。応じるな、と言うのだろう。動作の一切を封じられて尚、カムリは騎士としての心を失ってはいない。
次はシナンが息をついた。
「……状況が分かっていないようだな」
「あ?」
「騎士に暴行を加えたということは、今のお前たちをどんな手段で捕らえても良いということだ。その三人はここで返してもらう」
「どうやってだよ。言ったそばから俺を殺すか?」
防具の一つも身に着けていないシナンが、近くに居た騎士の一人から剣を受け取る。
「シナン!よせ!」
セドウィンが叫ぶのも聞かず、シナンは一歩、また一歩とレベリオへ近づく。
「では、要求を賭けて決闘といこう。勝負は武器を取り落とすまで」
「くだらねえな」
「受けられないか?」
レベリオは、そのぎらついた瞳をますます研ぎ澄まして、カムリを部下に押しつけ、背負っていた得物を眼前に晒す。巻きつけられた布を剥ぎ取ると、中から出てきたのは、人間の体など簡単に叩き斬ってしまうであろう巨大な斧だった。
それを片手で持ち上げ、レベリオは殺意の面持ちに、薄らとした期待を浮かべる。
「……そこまで言うなら仕方ねえ。殺しても構わねえだろうな?」


エイドは無地の敷物に目を落とし、扉が閉まるのを耳で聞いていた。寝台に腰掛けると、みるみると視界がぼやけて、また名前の分からない涙が溢れた。孤児院の時もそうだった。これで二回目だ。
あの時から今まで、自分が選択して取った行動の全てが、結局誰かに心配をさせ、迷惑をかける結末にしかなっていない。満足な礼もせず、後始末すらも人任せだ。
一人で家に帰ることすら出来ない人間に、それ以上の何が遂げられるというのだろう。自分がもっと勇敢であったなら、もっと聡明で、大きな器を持っていたのなら、こんなことにはならずに済んだのだろうか。
否、全ては最初から間違っていたのかもしれない。あの時、自分の判断で逃げたりしなければ。素直に殺されていれば。そもそも――自分のような者が生まれて来なければ、こんなことにはならずに済んだ。誰も不幸にならなかった。
次から次へと湧き起こる後悔が、彼の心を底なしの沼に押し込んでいく。せめて、あの騎士に感謝を表そうと思えば、全てを包み隠さず語るしかない。
しかし、それは同時に、彼をこの争いに巻き込むことでもある。傷つく人間を増やすだけだ。自分のせいで起きている問題に、彼やこの領の騎士たちが関わらねばならない理由は無い。
ましてや、彼の考えを知っているなら尚更だ。ラドアルタが憎くはないのか聞いた時、彼は当たり前のように、自分にとっても最も重要なことを口にしてくれた。
今ある平和が続いていけばいい、と。
堪えきれず閉じた瞼に、今もあの光が焼き付いている。深い草木を隔てた向こうで、木漏れ日を浴びる白刃の煌めき。それが間違いなく自分を追い、近づいてくる恐怖。
始まりは自分よりずっと後方で上がった、誰かの悲鳴だった。続いて同じ場所から複数の怒声が聞こえ、甲高い金属の音が響いてくるのが分かった。
先を急ぎ駆け出したものの、待ち伏せていたらしい何者かに道を塞がれる。彼らの殺意は間違いなく、自分だけを捉えていた。やむなく山の中に入り込むと、自分を守ろうとする者たちを置いて、馬から降り、命を守るためにひたすら走った。
ここで自分が殺されれば、今までしてきたこと、自分が受け継いだこと、全てが無駄になってしまう。ぬかるみや枯れ枝に何度も足を取られ、土を食みながら、一瞬の躊躇もなく、道なき道をがむしゃらに進んだ。
ようやく一軒の廃屋を見つけて入り込んだ時、空は薄暗く、近くで鳥の羽ばたく音がする度に息を殺した。ややもすると足が痛み始め、喉が猛烈に渇いて、体ががくがくと震えた。だが茫漠とした闇の中に、そんな体を長く浸していると、やがて心が遠くへ抜け出して、これが悪い夢であるかのようにも感じていた。
そう、これはきっと夢だ。目が覚めれば自分は、まだラドアルタにいるのだ。そして素晴らしい贈り物を携えて、国に戻り、皆の喜ぶ顔を見ることが出来る。両目を塞ぎ、その時が訪れるのを待った。
そこに、話し声がして、誰かの入ってくる音がしたのだが、それからのはっきりした記憶が無い。次に意識が戻った時には、自分はあの孤児院にいた。
「…………。」
淡い期待と共に開いた目に映ったのは、見慣れない、薄暗い部屋だった。燭台には小さな二本の蝋燭が灯され、辛うじて、窓から見える夜空と室内の闇の区別がつく。
ああ、やはり、現実なのか。
寝ぼけた耳の奥には、まだ悪夢の残響がある。刃と刃が、殺意と共に弾き合う鋭い音色。城の中で聞き慣れた日常の音と、それは同じで、全く異なるものだ。
「…………!?」
全く、異なるもの。
違う。これは、記憶の中の音などではない。どこかで今、本当に、誰かが戦っている。
眠りから覚めたばかりの体を、吐き気がするほどの動悸が襲う。それが訓練ではないと分かったのは、殆ど直感であった。ちょうど、誰かが前の廊下を走ってくるのが聞こえたのも、予感を確信に近づけた。
膝で床を這うように、扉へと近づく。どうやら侍従たちが部屋の前に集まっているらしく、震える手で扉を少し開けると、その内容を聞き取ることが出来た。
「――ロブレン盗賊団だ。頭領のレベリオが来ている」