「っ……!」
腕が小さな悲鳴を上げ、刹那、表情が歪む。しかしその後に見せたのは、不敵な笑みだった。
「!」
レベリオはその意味を悟り、咄嗟に飛び退いた。彼の右脇腹から左の胸部にかけ、少量ではあるが、血が流れている。
先程の一撃は外したように見えて、先端を掠めていたのだ。一つだけならどうということのない浅い傷だが、恐らくはこれを繰り返して、消耗を早めるつもりなのだろう。
「……なるほどな、そういう考えか」
「……。」
「悪くはねえが、少し遅かったんじゃねえか?」
言い終わる前に助走に入り、勢いをつけてなぎ払う斧は鈍い風の音を発した。舌打ちし、また胴体を狙ってくるであろう剣の位置を探る。
それは予測よりも遠くにあって、虚を突かれ、動きが止まってしまう。既にシナンは至近距離にいて、理解が及ぶと同時に、衝撃がレベリオの頭を揺さぶった。頬にめり込んだのは、拳だった。
目が回り、うっかり力を緩めそうになったが、地面に斧を突き立てて均衡を取り戻す。
「……はは……」
その視界の中心で、シナンが肩を上下させているのを見て、レベリオは初めて、本心からの笑い声を上げた。
「はははははは!!こいつぁ良い、遂に武器まで捨てやがった!!」
この勝負の条件を決めたのはシナンだ。彼はまだ、その手にしっかりと剣を握り締めているが、それを充分に扱う力が残っていないのだろう。
「今ので気絶させるつもりだったろ?残念だったなあ!てめえごときの力じゃ、血も出ねえみたいでよ!!」
自らの優位を確かめるように、左右に振れる足取りで、ゆっくりと間合いを詰めていく。攻撃に出ないのは、このままシナンが剣を取り落とすことを期待しているからだ。負けた相手に尚も命乞いをさせることが出来るのだと思うと、楽しみで仕方がない。それも、この世で最も憎い、父の仇だ。
「さあ、何か言うことはねえか?次で最後になるぜ」
「……そうか、意外だな」
だが。
シナンは尚も笑みを浮かべると、まるでレベリオを気遣うようにして。
「俺はまだ動けるが、もう疲れたのか?」
その台詞はレベリオの体中の血潮を、一瞬で煮えたぎる油へと変えた。
「いかん!」
セドウィンが思わず口にして、進み出ようとした。レベリオは獣のように咆哮し、斧を握る手には筋を浮かべて、次こそ殺すと決めた相手に突進する。その時、セドウィンの足下に、彼を押しのけるようにして滑り込んだ気配があった。
「シナン殿!」
その声に反応したのは、名を呼ばれたシナン本人だけだった。彼は驚いた顔をして、何かを言おうとしたものの、すぐに顔を伏せて目元を覆う。
小さな影は銀色の髪をなびかせて、シナンとレベリオの間に立ちはだかった。
「何っ!?」
瞬間、小さな太陽が突如として現れたような、強烈な光が人々の目を刺した。それを最も近くで受けたのは、正面にいて、憤怒に目を見開いていたレベリオだった。
よろめきながら後ずさりしたレベリオは、目眩の中、乱入者の姿を捉えた。年端も行かぬ子供だ。彼は光を放つ何かを自分の首にかけると、剣を抜き、構える。
「……エイド!」
少し突けば倒れそうなほど、エイドの体は震えていた。
しかし、今の彼を動かしているのは、混じり気の無い勇気だけだ。そんな気持ちの前では、自分が本当は何を感じているかなど、何の問題でもない。
「そこまでだ、悪党。これ以上、彼に手を出すな!」
横槍を入れられたレベリオは、思いがけず落ち着きを取り戻していた。代わってその面持ちには、呆れを含んだ苛立ちがじわりと浮かぶ。
「何のつもりだ?俺たちゃ遊んでるわけじゃねえぞ」
「……!」
「……そうか、死にてえのか」
流石に怯み、歯を食い縛ったエイドの傍らに、別の人物が立つ。
「それはならん。この方は我らの城の客人だ。手を出すことは団長の私が許可しない」
セドウィンは、エイドの身の丈ほどもある大剣を構え、二人を庇うように進んだ。
「どうしてもと言うなら――我々を破ってからにするんだな」
その言葉を受け、静観していたヴェルク騎士たちも、待ちかねたようにそれぞれの武器を取り出す。
「……卑怯者どもが……」
「何とでも言え。お前たちの度重なる狼藉、ここで清算させても構わんぞ!」
一方、そんな予定ではなかった盗賊たちは顔を見合わせ、戸惑いながら武器を手にする。ここに来た時の余裕に満ちた薄ら笑いは、見る影もなくなっていた。
「……いい」
そんな部下たちにレベリオは、低い声で制止をかける。
「で、ですが!」
「阿呆、この人数で戦える訳がねえだろ。帰るぞ」
後ろ髪を引かれつつ踵を返す盗賊たちだが、その前を、数十の騎士を率いた柔和な顔立ちの青年が塞ぐ。
「おっと。彼らは返してもらわないと困るよ」
青褪めた顔に口惜しさを滲ませながら、盗賊たちは捕らえていた三名の騎士を、投げ捨てるように解放して走り去った。
「うっ!」
すぐに彼らの拘束が解かれ、怪我の状態の酷い二人から、城の方へ運ばれる。童顔に痣を付けられながらも、意識ははっきりとしているカムリは、まず副長の姿を認めて頭を下げた。
「……不覚です。申し訳……ありません」
副長は彼の前に膝をつき、心からの安堵を込めて首を横に振った。
「命があって何よりだよ。災難だったな、カムリ」
レベリオは部下たちが充分に離れていったのを見ると、斧に布を巻いて、背中に担ぎ直す。
「……とんだ邪魔が入りやがった」
「……。」
「……次に会った時こそ、てめえを殺す。楽しみにしとくんだな」
彼を追おうとする騎士もいたが、シナンがそれを止めた。
やり場の無い感情に任せ、レベリオは、集合地点になっていた林への道を足早に辿る。木々の中に踏み込んですぐ、一人の部下が自分の馬を引いて、そこに待っていた。
「他は帰ったのか」
「後は自分だけです。ささ、早く!」
馬の首を北へ向けると、レベリオは駈足の合図を出す。その耳に、風を鋭く射る音と、金属を弾く甲高い音が届いた。
振り返れば、一瞬で行き過ぎた遠景の中に、確かに見えたのは鏃の輝きであった。
「……どいつもこいつも」
慰めにもならない生温い夜風を浴び、手綱を握り締める。
レベリオは憎悪の炎が姿を変えたあの闇が、また静かに心を呑み込むのを感じていた。
「……セドウィン団長」
人質に取られていた騎士たちの見舞いから戻ると、セドウィンは弓騎士隊の隊長に呼び止められた。
「セスト。討伐に行っていたのでは?」
「後処理は任せてきました。……それより、ロブレンの連中とすれ違いましたが」
セストはこの騎士団の中では、シナンを上回る実力を持つ人物だ。だが今日だけは、彼が城に不在で良かった、と思った。セストはヴェルクの敵に対して一切の情けが無い。シナンは相手がロブレンの人間か否かに関わらず、殺さないことを掲げているので、それに一応は倣っている、という所だ。
セドウィンが説明する経緯を、セストは黙って聞いていた。
「……あいつも無茶をする……」
「全くだ」
そして、話が終わると、一息をおいて口を開く。
「……私からも報告があります」
「どうした?」
「今回討伐した盗賊たちの、最初の通報ですが……」
ぐったりと疲れた体を横たえ、エイドは首飾りを見つめていた。先の戦いで、今日の昼間に集めた光は全て失われてしまったようだ。
盗賊たちが去った後、シナンにはまず、危ないことをするなと言われた。だがその次はシナンが、団長と呼ばれていたあの男性に叱られていた。この子が来なければお前も危なかっただろう、と。
シナンは自分に対して跪くと、危機を救われたことへの感謝を述べた。それから、後で改めて、礼を言わせて欲しいとも。
蝋燭の灯りでかすかに輝きを保っている宝石は、心なしかそれまでよりも、美しい色合いになった気がした。
扉を叩く音に、慌てて首飾りを服の下に入れ、寝台から飛び起きる。返事をすると、開いた扉の向こうから白い髪が覗いた。
「……すまない。変な事に巻き込んでしまったな」
扉を閉めると、シナンはまず、エイドにそう言った。
胸が痛む。その事件の原因は自分だというのに。
シナンは部屋の椅子の向きを変えるとそこに腰掛け、エイドに向き合った。
「魔法を戦いに使うのは、精霊の力を穢すこと」
「!」
「だが、俺はその力に救われた。君が来てくれなければ、しばらく戦えない体になっていたかもしれない」
首飾りを服の上から握り締め、エイドは言葉を探して俯く。今は返事を考えるより、とにかく事件のことを謝らなければと心を決めたが、シナンが先に続けたので、顔を上げるに止まった。
「君に、個人的な礼がしたいと思っている」
「……そ、そんな!僕は当然のことを――」
「いや、今回のことでじゃない。……勿論、それも含めて、だが……」
その時、彼がずっと浮かべていた笑顔が消えた。
他に礼をされるような場面など無かったのに、何を言っているのだろう。疲れもあって頭が回っていないエイドに、シナンは、声の調子を落として告げた。
「君の本当の名前を、教えてくれないか」
思わず息を止める。ようやく落ち着いてきた鼓動が、また早鐘を打ち始めていた。
何も慌てることはない。分かっていたことだ。ある程度の時間を騎士と共にしていれば、必ずそれを訊ねられることになると。
そして、その問いに答えれば。
だから、騎士には力を借りたくなかった。
「……何故、その必要が?」
「それは、君には既に話したはずだ。もしも俺が考えている通りなら……」
彼と目を合わせることが出来ない。本当に不思議な光だ。その色の前では、これ以上、偽の自分を通すことなど不可能だった。
「君の問題は、ヴェルクの騎士である俺が、無視していいものじゃない」
――ましてや、彼の考えを知っているなら尚更だ。
この領の民だけでなく、辺境の町に訪れるラドアルタの民、そして盗賊たちとの平和をも願っている彼に、無関係でいろなどと言えるだろうか。
誰も巻き込まず、一人で解決すべきだと思っていた。しかし、それは立ち向かっていたのではなく、逃げていたのだ。一人だから、勝てないかもしれない。失敗しても仕方ない。
その先に待つ未来は見えていたのに。それを避けることを、考えていたはずだったのに。
「……話してくれないか。君が何に怯えていたのか。そして、何をしようとしているのか」
次に、自分がすべきこと。
それはきっと、ここで彼の力を借りなければ、為し得ることではない。
白く端正な面立ちに、目の前の騎士への確かな信頼と、一つの覚悟が宿る。
「……ずっと、あなたに嘘をついていました」
銀髪の少年は、両の手を膝の上に置くと、シナンを真っ直ぐに見つめた。
「僕の名前は、アルクェイド――アルクェイド=アルフレッド=ヴェントハイム。セルヴァニア国王、アルバート=ヴェントハイムの息子です」
(「暗月の夜半」 了)
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