冷たくなった夕食一式を手に、シナンは広い食堂の一席に着いた。既に他の団員たちは、早ければ就寝の準備をしている時間なので、談笑している者がまばらに座っているだけのこの空間は、やけにひっそりと感じられた。
こんな時に冷たいスープなど飲んでいると余計に後ろ向きになってしまいそうで、まずは固くなったクラットから噛み砕いていくことにした。三枚もクラットがあると、椀飯振る舞いだなあといつもは思うのだが、今のシナンの口からは、軽くない溜息が漏れた。
「何だ、その顔は。食事への感謝を忘れたのか?」
だが、その声を聞いて、反射的に背筋が伸びる。声の主はシナンの後ろから回り込んで、卓の向かいに腰を下ろした。元々緑髪だった頭には白い色が目立ち始めているが、精悍な顔立ちには衰えがないどころか、こうして正対するだけで身が引き締まるような貫禄があった。
「セドウィン……」
「団長と呼べと言っただろう」
「すみません」
つい最近、自分も部下に注意したばかりだったのにとシナンは俯く。しかし男性の呆れた笑いが、ほんの少し、心を締め付ける綱を緩めてくれた。
セドウィンは、このヴェルク騎士団の現団長である。領主ロランとは昔馴染みの親友で、またシナンとは上司と部下というだけではなく、師弟、或いはシナンからすれば、ロランとはまた違う父親のような存在だった。
「随分と遅い食事だな」
「はい。今日は一日、移動していたもので……休憩していたらこんな時間に」
やはり冷たくなった茹で野菜を口にする。セドウィンは少し考えてから、ロランと同じような質問をした。
「孤児院の訪問に行ったのではなかったか?」
「泊まらずに戻ってきました。途中で旅の方を保護したので」
「ほう。その方は今?」
「客室に。明日、領境まで送る予定です」
シナンは、セドウィンも普段、この時間にこんな所にはいないはずだと思って訊ねた。
「団長は何を?」
「ああ、物思いに耽りながら仕事をしていたら、遅くなってしまってな」
仕事人間の彼が他のことに気を取られるなんて珍しい、という感想を抱きつつ、シナンは二枚目のクラットに手をつける。
「それに、お前と話がしたくなった所だったのだ」
それを口に入れてからセドウィンが続けたので、シナンは目でその理由を訊ねた。
「……『花狩りの大嵐』のことを思い出してな。ちょうど今頃のことだっただろう」
味のしないクラットをばりばりと咀嚼しながら、シナンはスープの茶色い鏡面に目を落とす。真っ先に呼び起こされたのは、木々をへし折るほどの風と、城壁を穿つような雨の音。
ようやく細かくなったクラットをスープで流すと、シナンはそれに答える。
「……そうでしたか。もう、随分前に感じますね」
「まあ、十年も前だ。お前にとっては随分前かもしれんな」
しかし、憶えていない訳ではない。忘れるはずが無い。
あれはシナンが自らの手で一人の人間を救った、初めての事件だったのだから。
「――セドウィン団長!!」
瞼の裏に浮かび始めた回顧を掻き消すようにして、緊迫した騎士の叫びが食堂に響き渡る。
「騒々しいぞ、何事だ」
二人の元まで走ってきた騎士はセドウィンの厳しい声にたじろぐこともなく、息を切らしながら答えた。
「ロブレン盗賊団の者たちが、突然……!団長か、シナン隊長に話があると……!」
その言葉にシナンも席を立ち、露骨な嫌悪を浮かべるセドウィンと視線を交わす。
「まさか……」
「……間違いない、奴だ。要求は?」
食堂は俄かに騒がしくなり、通路には城門へ急ぐ足音が響く。
「それが不明で……奴ら、騎士を人質にして……!」
それを聞いたシナンの琥珀の瞳が、白狼の異名を裏付けるかの如く、険しい光を宿した。


−W 暗月の夜半−



「グレン殿、とんだ問題児を迎えたものですね」
その夜、赤屋根孤児院一階の最奥にあるグレンの部屋で、ある子供への説教を終えた一人の騎士がそう零した。若き日のセドウィンである。とはいえ年齢は四十を超えているのだが、眼差しには青年のような真新しい鋭さがあった。
グレンは先程まで、セドウィンに合わせて厳しい表情をしていたのだが、その言葉にはかっかと笑って体を揺らす。
「見所はあると思わんか?剣術に対する素養もある」
「そうかもしれませんが、向こう見ずが過ぎます。あのまま力を持たせれば、必ず身を滅ぼす……。」
セドウィンも、かつてはこの孤児院で育った子供の一人だった。彼はその日、前回からふた月をおいて、子供たちへの指導のために孤児院を訪れていた。だがその直前、予定外の事態が彼を襲った。ユク村が盗賊に襲われたのである。
付近の拠点で一泊するつもりでいたセドウィンは、報せを受けてすぐ、村へと駆けつけた。逃げ惑う住民を保護し、家々を破壊しようとする盗賊たちを止め、戦意を奪いながら、彼は孤児院の方へと急いだ。すると、孤児院の前に数人の盗賊たちが集まって、誰かを取り囲んでいるらしいのが見えた。
その状況を間近で見た時、セドウィンは吃驚した。見慣れない姿をした一人の少年が、木の槍一つで、本物の刃物や鈍器を手にした盗賊たちを牽制していたのだ。セドウィンは好機とばかりにその中に割り込み、ちょうど追いついてきた他の騎士たちと協力して、あっという間に全員の捕縛を完了した。
その間にも少年は、怯える表情どころか、安心して力が抜ける様子も無く、泰然とそこに立ち続けていた。一体彼は何者なのだろうとセドウィンが訝しんでいると、孤児院から子供たちが転がるように出てきて、それを追ってグレンも姿を見せると、少年の元に駆け寄った。
グレンはその無事を確認した後でセドウィンに気付くと、彼にその少年を紹介した。名はシナンといってひと月ほど前、この孤児院に新しくやってきたのだという。
何でもシナンは盗賊が来たと聞くと、一度は他の子供たちと孤児院の奥に避難したふりをして、練習用の武器を手に外に出てしまったらしい。まずセドウィンとグレンは、彼を部屋に呼んで、危険な行ないを叱った。彼は淡々と返事をし、話が終わると、何か反論をするでもなく、静かに寝室へと帰っていった。
それから、セドウィンはシナンという子供について、詳しい話を聞いた。彼が孤児院にやって来た時のこと。その風貌には何か、特別なものが感じられるということ。しかし、彼は母を失った怒りや憎しみを心に抱えていて、このままでは彼の力は、その感情のために使われてしまうだろうというグレンの考えを。
セドウィンは盗賊に対するシナンの態度に危うさを感じはしたものの、確かにそれさえ取り除けば、彼はどんな脅威にも臆せず立ち向かう勇敢な騎士になるだろうとも思った。彼はグレンと協力し、必ずや彼を正しい道へと教え導くことを誓った。
こうしてセドウィンはシナンに対して、日課の訓練に加えて別の稽古も付け始めた。彼は教官として子供たちに当たる時、決して笑顔を見せなかったために恐れられていたが、殊にシナンに対しては人一倍厳しく接した。それはシナンの中に潜んでいるであろう攻撃性を炙り出すためであったのだが、シナンはどれほど打たれ、倒れようと、それらしい感情を見せることはなかった。ある時とうとう、立ち上がれなくなったシナンを見て、孤児院からユウィンとマーサが飛び出して、セドウィンを止めに入ったことがあった。後から聞けば、シナンは妙に頑固な所があるので、それがセドウィンを怒らせたのではと思ったらしい。
実際、セドウィンはシナンの体をどれほど苛めても、彼が泣き言や暴言の一つも吐かないので焦っていた。二人の子供に指摘されるまでそれに気付けなかった彼は、教える者としてあるまじき態度だったと自分の行為を恥じ、熱くなりすぎたことを反省した。
それはセドウィンの必死さが空回りした結果であったのだが、シナンもまた、異常な我慢強さを持っていたのは確かだった。子供とはいえ、基礎的な体力をつけるための日々の鍛錬は、やや負担がかかるほどでなければ意味を為さない。ただでさえ練習に参加する子供たちは、一日を終えるとくたくたになって寝てしまうのに、シナンには更に集中的に、実技の稽古がつけられていた。しかしユウィンに確認したところ、シナンは大人の前では勿論、ユウィンのように距離の近かった数少ない相手にさえも、弱音を吐いたことがなかったという。それが判明した時、このままでは自分の指導がシナンを余計に孤立させてしまうと、セドウィンは強い不安に襲われた。
そこで彼はもう一度、シナンをグレンの部屋へと呼び出すことにした。シナンはまた無表情に部屋の扉を開け、二人の前の椅子に座る。セドウィンは単刀直入に、鍛錬が辛くはないか、と問うた。
するとシナンは、いいえと即答した。二人が顔を見合わせ、無理をしなくて良い、本当のことを知りたいと言っても、彼は訓練を辛いと思ったことはない、ときっぱり言い切ったのだ。
そんなはずはないと、セドウィンは彼に、本当のことを明かした。今、自分がつけている特訓は、本来の量を遥かに上回るものだということ。もし苦しいと感じているなら、このまま続けると体を壊す恐れもある、ということを。
そこでシナンは初めて、答えるまでに僅かな間をおいた。
続いたのは、それで強くなれるなら、という、独り言のような弱い呟きだった。
グレンが、何のために、と訊ねる。
「……力の無い者を助けられる人間になると……母さんに約束したから」
シナンは膝の上の拳を強く握り締め、掠れた声でそう答えた。
セドウィンとグレンはそこでようやく、自分たちが大きな勘違いをしていたことを知った。グレンは彼が孤児院に訪れた時の鮮烈な印象から、彼がきっと小さな体に溢れんばかりの憎悪を抱えて、人を寄せ付けず、過酷な修行に身をさらして、強くなろうとしているのだと思い込んでいた。だが、シナンを本当に支配していたのは、今は亡き母との約束を一刻も早く果たそうという、彼なりの責任感だったのだ。
それを聞いたことで、二人はひとまず安心した。セドウィンは、シナンに必要以上に辛く当たったことを詫び、君は必ず約束を果たせる、私が保証する、と穏やかに告げた。
「……でも、俺は弱いから……もっと強くならないと、誰も……」
シナンは少しずつ、吐き出すように、二人に本心を見せていった。セドウィンはこの時、彼の前で初めて笑い、その小さな両肩に手を掛けた。
君は弱くなどない、むしろ強すぎて怖い方だと。
「それに、どんな敵でも倒せることだけが、強さではない」
「……!」