カムリは「白狼騎」の名を耳にするよりずっと前から、騎士になることを目指していた。人々を救いたい、という理由からだったが、実はそれを最大の動機にしている人間は、地方騎士団では少数派である。
地方騎士団は、王都のそれと違い、元々「民」の身分である人々によって構成される。正式に騎士となれば勿論、力なき民を救おうという意思を持たねば続かないが、彼らが騎士を志すきっかけは、大半が自分の生活のためだ。
セルヴァニアの一般的な家庭では、長男が家の仕事を継ぐ。その長男がよほど家の仕事を嫌っているか、また仕事を継ぐことが難しい理由がなければ、次男や三男は別の仕事に手を出すことも多い。
騎士になるのは大抵、そうして家業を継ぐ必要がなくなった者たちである。まず騎士になれば、寝泊まりは拠点ででき、着るものや食事も領から支給される。日々業務をこなしていれば――それこそ、盗賊団が拠点を襲撃するようなことがなければ――衣食住に困ることはない。任務は死と隣り合わせでもあるが、功績や階級によっては特別な褒賞が与えられることも考えれば妥当な苦労だ。それで新しい家を構えることだって出来るし、家族の生活が苦しいとあらば、助け舟を出すこともできる。何より騎士となることはセルヴァニアの民にとって、与えられた一つの仕事のためにしか生きられず、力を持つこともできず、脅威から逃げ惑うことしかできない身分を脱却する唯一の方法なのだ。
カムリはそんな現実的な、言い換えれば地に足のついた目標を持たずに騎士を目指していた珍しい人間であった。それと、今一つ気迫というものが足りない自分の容貌への不満もあって、そもそも騎士団に入団出来るかどうかということにも強い不安を抱いていた。だから「白狼騎」の話を聞いたとき、カムリはまるで目が覚めるような心地がした。そんな風になりたい、と思った。民の脅威を退けるだけではなく、共に戦う仲間たちにも勇気を与え、敗北すらも覆す、そんな騎士に。
カムリは「白狼騎」に少しでも近づくべく、見習いの間にも人一倍の鍛錬と勉強を重ねた。その甲斐あって希望通りに第二隊へと配属されたものの、彼のように戦うには程遠い。その強さは、力を持たない民を救うことは当然として、仲間を、そして盗賊すらも助けるために身につけられたものだったのだ。自分はまだ、その領域に爪先をかけてさえいない。早く力をつけなければと思う一方で、彼から直接もらった、漠然とした焦りは禁物だという言葉を噛み締める。
自分はもう、一人の騎士として、歴とした仕事を任されているのだ。今はそれを滞りなく終わらせなければと気持ちを切り替え、階段の方へと足を向けると、廊下をそわそわと右往左往している人物が目に入った。
「……?」
騎士団から支給された防具を身に着けていなければ不審者扱いするところだったが、よく見れば知った顔である。
脅かさないように前方から近付くと、彼ははたと立ち止まって顔を上げた。
「レイチェル、どうかしたのか?」
弓騎士隊の一員であるその青年はカムリより年上だが、彼が見習の時、乗馬の技術を教えた関係で知り合いになった。カムリの声に、レイチェルは憔悴した表情で深いため息をつく。普段は飄々として何でも仕事をこなしている彼が、こんな風になっているのは珍しく、カムリは本気で心配になって身構えた。
「……心配で仕事が手につかないんだ」
「……は?」
「いや、バカバカしいとは思うんだけどな。あいつに何かあると親からもどやされるし、まあ、隊長もいるから大丈夫だとは思うんだが……」
一瞬、何の話をしているのか分からなかったカムリだが、彼がそこまで心配することは、一つしか心当たりがない。同じ隊に所属している、彼の妹のことだろう。
「ジュノちゃん、巡回にでも行ってるのか?」
「巡回どころじゃない、討伐遠征だよ!まだ入って二年だぞ、お前だって実戦に出てないのにおかしいと思わないか!?」
彼がここまで口調を荒げるのも、カムリは初めて見た。苦笑いしながら、両手で彼を宥める仕草をする。
「それは……でも、そういう方針は隊によって違うから……」
答えつつ、相変わらず弓騎士隊は育てるのが早い、と驚く。レイチェルだって、弓騎士隊には彼より歴の長い隊員がたくさんいるのに、既に隊長の留守を任されるようになっているなど異例中の異例である。これは、彼が他の隊から集まったのではなく、彼が最初から弓騎士隊に志願した一人目であることが関係しているらしい。副長を取っていないということも含め、とにかく弓騎士隊の隊長は気難しいらしいので有名である。
「そもそも、認められていないと戦場になんて出されないだろう?」
「……いや、シナン隊長はそうかもしれないけど……」
ヴェルク騎士団には、彼の所属する弓騎士隊を含め、六つの部隊が存在する。
まず第一隊は、騎士団長セドウィンが率いる、比較的年長の者で構成された騎兵隊だ。若年の騎士が所属する第二隊と合わせて、ヴェルク騎士団の主戦力を両翼として担っている。
第三隊は重騎士隊とも呼ばれ、戦闘においては最前に立ち、敵の突撃を受け止めるなど、防壁の役割を果たす。騎士団の中でも血の気の多い人間が集まっていて、鎧をいくらか外して身軽になった彼らは、敵陣の一点を圧倒的な火力と勢いで押し破る特攻隊へと姿を変える。
第四隊は、第二隊と同じ騎兵隊だが、やや弓騎士隊に近い役割を持つ。比較的軽装で、状況に合わせて人数や配置を変え、敵の守備が手薄な個所や待機中の敵部隊に奇襲をかけるのが主な戦い方だ。
そして第五隊は、セルヴァニア全国でも珍しい、女性のみで構成された部隊である。人数は少ないが、他の部隊と同等に戦える人材を有し、ヴェルク北部の中継拠点を守っている。
「うちは戦場に出してみて、ついて来れないならそこで切るっていうやり方なんだよ」
「……切られた人がいるのか?」
質問に無言でこくこくと頷いたレイチェルは、壁に手をつくと、蚊の鳴くような声を漏らした。
「ああ、盗賊に人質に取られてたらどうしよう」
「……。」
「だとしても隊長がいれば大丈夫だろうけど、そんな目に遭ったら確実にお払い箱だし……いや、それならあいつも諦めがつくか……」
レイチェルの妹は、彼を慕って自分もと騎士団に志願したが、最近は専ら、弓騎士隊の隊長に熱を上げているらしい。
妹のことになると途端に心配性になるのは何となく知っていたが、初対面の自信に溢れた印象がカムリの中にはあるので、顔には出さないがこうも別人になるものかと面白くなってしまった。
「別人……」
「何とでも言え。お前には分からないだろう、この気持ちは」
「……いや」
一方、カムリには年下のきょうだいがいない。
「……少しだけなら、分かるよ」
だからレイチェルの気持ちそのものは感じられないが、幼い日の記憶の中に、ふと似た気配を感じるものがある。
それは確か、夏が始まったばかりのある一日で、眩しいほどの空が爽やかな風を吹かせていた。
カムリと、彼と同い年ほどの村の子供たちは、その好天に浮かれて近くの森へ探検に出かけた。大人からすればさほど大きな森ではないのだが、子供達の冒険には絶好の場所で、珍しい虫や鳥を追いかけ歩いて、とうとう道に迷ってしまった。
帰り道が分からないことに気づいたのは、夏の長い日が赤く染まり始めた頃だった。どこを歩いても同じ景色、次第に夜に近づき始める空気、昼間とは様子の違う生き物たちの息遣いに、早くも泣き出してしまう子供もいた。その時、彼らを見つけて声を上げたのが、少年だった頃のルーカスであった。
いつも楽しそうなことを探して笑っているルーカスが、その時ばかりは本気で怒っていたのを、カムリは今でも覚えている。後で知ったことだが、ルーカスは自分がきつく叱ったからと、大人たちにはあまり厳しいことを言わないように伝えていたのだそうだ。
きっとその時の彼の気持ちが、今のレイチェルと同じなのだろうと思う。シナンのことを知るより前に、カムリが騎士を志していたのは、ルーカスの存在が近くにあったからだ。
「ルーカス」
不機嫌な声で名前を呼ばれ、ふと我に返る。ルーカスはカロン砦の書斎で椅子に座り、机の前に部下を立たせているように見えるが、実際は逆である。
金髪を青い額あてで上げたその青年は、第四隊副長のキースと言った。彼は突然、話があるといって書斎に乗り込んでくると、机の上に空になった酒瓶を三本ほど置き、これは何かと訊ねた。
酒、と答えると、正解したのに何故か説教が始まったので、彼は取り留めもないことを考えて時間を潰すことにしたのだった。多分、この前の、途中でつまみ出されてしまった宴会の件を怒っているのだろう。一応、拠点には原則として酒類を置いてはいけないことになっている。
「……話を聞いていなかったな?」
「ああ」
「ああとは何だ!」
「答えただけじゃねえか」
これ以上からかうと後で斬られそうな気がしてきたので、ルーカスは両手を挙げて降参を示した。
「分かった分かった。もうしません」
「この間もそう言っていたが」
「よく覚えてるよな」
そう思った傍から無意識の冷やかしが口をついてしまい、ルーカスは笑ってしまわないように精一杯だった。カムリもそうだが真面目な相手というのはからかわないと気が済まないのである。悪癖だと自覚はしているのでましな方だろう。
「……全く。また団長に報告させてもらうぞ」
「次からはちゃんと誘うって、お前は仕事だっただろ」
「そういう話をしているんじゃない」
キースはキースで、この奔放な部隊長の扱いにも慣れているので、本当に斬ったりはしないが、たまに足を踏んだりする。そうでもしないとこの男が要らない敵対者を作ったり、出来もしないことを約束してしまうからだった。
「……なあ」
「何だ、言い訳なら聞かんぞ」
上下関係が逆転したような返事にも特に気分を害することなく、ルーカスは続ける。
「お前、何で騎士になったんだっけ?」
「……どうした、二日酔いか?」
「違う」
ルーカスは西日の色に変わり始めた空から、一旦目を離して、キースに回答を求めた。
「……俺は、父親が騎士だった。戦傷で引退して、故郷の村に戻って、母さんと結婚した」
「染物屋だったか?」
「ああ」
確かキースがつけている額あては、彼の実家で作ったものだったはずだ。キースはそれを徐に外して、しみじみと見つめながら話す。
「親父は子供ができれば、自分が諦めた道に行ってほしいと思っていたが、俺の上は二人とも姉だった。その頃は確か、第五隊も出来たばかりで、親父はあまり認めてなかったんだろう。俺が最後の頼りだったわけだ」
こうして聞いてはいるが、ルーカスもそれを知らなかった訳ではない。キースが実は争いごとを苦手としていることもだ。それなのに親の期待を背負う形で入団を志望し、認められてしまった上、真面目さがたたりこうして副長の地位にまでついている。
一方、ルーカスが騎士である理由は、その真逆とも言えるし、似ているところもある。ルーカスの家は、ヴェルクの中でも指折りの大農家だったが、祖父はかつて、ヴェルク騎士団に所属し、五十歳ごろまで活躍していた。彼は孫のルーカスを特に可愛がっていて、ルーカスも自分が騎士となることには吝かではなかった。だが、入団志望を出して見習いとなった後、彼は同期の見習いと諍いを起こし、志望を取り消されてしまった。
当時は既に病床にあった祖父に、それを報告しなければならなかったのは苦い思い出だ。祖父はルーカスを叱ったが、同時に、それはお前に必要な試練だ、とも言った。驕らず、他人を蹴落とそうとせず、互いの力を尊重せよと祖父は説いた。もしその言葉がなければ、祖父が一足早くこの世を去っていたなら、自分はこうして砦を守ってはいないだろう、とも思う。
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