「忘れ物はないか?」
「はい、大丈夫です」
彼を縛っていた不安や恐怖も、かなり緩んだと見えて、そうすると引き立ってくるのは丁寧で柔らかい話し方や、姿勢の美しさである。騎士団に新たに入団してくるのは、エイドと同じくらいの年齢が多いのだが、彼らに美しい立ち居振る舞いを覚えさせるのは、戦いを教えるより骨が折れると言う者もいるほどだ。シナンも何だか身が引き締まる思いで、いつもより腹の底に気合を入れて、砦の騎士たちに出発の挨拶をしに行った。
「そろそろ出るよ。世話になった」
「いいえ、隊長もお気を付けて。盗賊たちも追って城へ移します」
「ああ、頼んだ。それと、手紙もな」
すると、エイドはシナンの隣に進み出て、真っ直ぐに砦の騎士を見つめた。
「……ありがとうございました」
彼が驚いた顔をしたのも無理はない。何せ昨日はおどおどと身を隠すようにして、人を怖がるような素振りを見せていた少年が、外套で顔を覆うのもやめ、頭を下げてきたのだから。
「礼には及びません。君もどうか気を付けて、良い旅を」
二人が笑顔を交わすと、その傍らにいた別の騎士が、シナンとエイドを促した。
「お二人の馬を用意しております。こちらへ」
先導されて、門の方へ足を向けながらシナンは、エイドが何も言わずに後をついてきたことに、かすかな胸騒ぎを覚えていた。グレンから彼の話を聞いた時には、我ながら馬鹿げた考えだと思った。しかし彼の使う言葉の件も含め、エイドのことが分かってくればくるほど、その考えを一概に否定することが出来なくなってきていた。
シナンが最も訝しんでいることは昨日、この砦を目指して、エイドを自分の馬に乗せて歩いている時に起こった。道中で一度だけ、馬に積んでいた馬具がずり落ちたのだ。
エイドはシナンがそれに気付くより前に、手綱を引き、馬を完全に止めた。
単に馬に乗るというだけなら誰にでも出来るが、馬を乗り手の都合に合わせて動かすとなると練習が必要である。特に騎士を志望する者にまず要求されるのが、馬を自在に操る技術だ。これは騎士たちがかつて、自分の馬を完璧に乗りこなすことで戦士として認められていたことの名残である。故に、馬の操作を心得ている人間というのは、その職業が限られている。まずは騎士と行商人、そして馬を繁殖させて人馴れさせ、合図などを教え込んで領主に納めたり商人に売ったりする、馬飼いという特殊な農民である。
とはいえ馬飼いは、領主によって特別に保護を受ける存在ではあるものの、他の農民と比べ格段に生活水準が高いわけではないので、エイドには当てはまらないだろう。何らかの理由で団を退いた元騎士も乗馬の技術を持つことになるが、彼の年齢でそれはないし、盗賊ではないことも明白だ。
今もエイドは、自分に馬が用意されているということに、何の戸惑いも見せなかった。シナンは、彼の衣服や剣が高級なものに見えることも鑑みて、王都周辺を仕事場にしている豪商の子か、それこそ王都騎士団に所属している貴族なのだろうとあたりを付けた。だとしても、商人の子供が売りもしない高級品を身に着けて、一人で何をしているのかという話だし、騎士団に入れる年齢は国内で統一されているはずである。
エイドの年齢なら、ようやく入団を志望出来るようになって、正式に騎士となるために地道な訓練を積んでいたり、或いは入団を認められたばかりで、まだ実戦には早いという所だ。どちらにしろ、まだ王都から遠く離れた土地で任務にあたったり、要人の警護を任せられる訳はない。
「……どうかされましたか?」
声をかけられて我に返ると、エイドはとっくに馬上で腰を据えていて、やはりその姿からは、微塵の不慣れさも感じない。
「ああ、すまない。急いでいるんだったな」
シナンは今回もそのことには触れず、踏み台から鐙に足をかけ、一息に飛び乗った。艶やかで逞しい栗毛の首を、挨拶代わりにぽんぽんと叩くと、馬を連れてきた騎士にも別れを告げて、城への帰路に就く。


今から六年前、このヴェルク領に小さな伝説が生まれた。それは騎士と盗賊との戦いの歴史に、一つの区切りを付けた事件であった。
ヴェルクを始めとする四つの領は、当時隆盛を誇っていたロブレン盗賊団により、絶えず襲撃を受け続けていた。彼らは騎士団にも引けを取らない数の人員を抱え、また盗賊団とは無関係ながら便乗して民を襲うならず者たちも出没していたため、騎士団はその対応に苦心していた。奪われた食糧を補い、破壊された家々を修理したと思えば、別の村が攻撃され、民が攫われる。初めこそいたちごっこの様相を呈していたが、度重なる侵攻によって徐々に領地側は疲弊し始め、即座に態勢を立て直すことが難しくなっていった。
ある秋の日、ロブレン盗賊団はヴェルク騎士団に対し、北西部の農村地域の支配権を賭けた決戦を挑んだ。
多くの民は盗賊に対し短絡的で粗暴な印象を抱いているが、集団の長の器量によっては、彼らは驚くほど計画的に、狡猾にもなる。当時のロブレンの長、「狂戦士」オルドスによる統率は、その最たるものだった。
オルドスは大人数での戦い方もさることながら、個人の力量も、凡庸な騎士では近づくことすら叶わないほどだった。彼の指揮によって中継拠点が征服されそうになったことさえあり、領主たちはどうにか交渉によって、彼との直接戦闘を避けようとしていた。だがオルドスにとって、それはいずれ果たさねばならない目的を先送りしていたに過ぎなかった。彼は本心から、草原を自らの力で統一することを望んでいたのだ。
その決戦は疲弊が激しかったヴェルクを狙い、支配地を大幅に広げるためのものであった。
領民も、騎士たちも、その戦いを恐れていた。相手は敗北を知らない狂戦士だが、一度奪われてしまったものを取り返すことになれば、領地への更なる損害は免れないだろう。ヴェルク騎士団は命に代えても、決戦に勝利しなければならなかった。
約束の日、太陽が中天に上ると同時に始まった戦いは、今までになく熾烈なものとなった。ヴェルク騎士団はやや押されながらも、ロブレンの突撃に耐え、奇襲をいなし、守りに徹して相手の消耗を待った。しかしながら、ヴェルク騎士団の主戦力は度重なる襲撃により疲労した状態で投入されており、その穴を埋めるのは実戦経験の浅い、若い騎士たちであった。戦況は芳しいとは言えないまでも、戦線の後退は当初の予測よりも緩やかで、このままなら、という希望がヴェルク騎士たちの中に芽生えた。
だが、両陣営共に多くの退却者、犠牲者を出し、互いに十にも満たない部隊だけが残った頃、遂にオルドス率いる隊が、ヴェルク騎士団の本隊へと進撃を始めた。
それを合図に、一度は後方に下がっていたロブレンの部隊が再び戦場に現れ、オルドスの隊に集中していた騎士たちを外側から崩していった。既に、ヴェルク騎士団には逃げ場がなかった。迫り来る「狂戦士」の、その名の通り狂気的なまでの気迫を肌に浴び、その戦いに居合わせた者は全員、自分はここで死ぬのだと確信していたという。
その劣勢を覆したのは、一人の年若い騎士であった。
彼の所属していた隊は戦闘の指揮をとっていた先代のヴェルク騎士団長により、一足先に退却を命じられていた。しかしその騎士は一人で戻ってきたと思うと、真っ直ぐにオルドスの元へ向かい、一対一の戦いを挑んだ。勝ち目が薄いどころではない、自殺行為と思われても仕方のない無謀だった。だが、彼の恐れを知らない姿が、勝利を見据えて揺らがない眼差しが、死の淵に立たされていたヴェルクの騎士たちを奮起させた。
その刹那、騎士団の気迫が、ロブレン盗賊団を上回った。相手が怯み、冷静さを欠いたほんの僅かな隙に、重騎士たちの猛進が突破口を開いた。その傷を修復しようとするロブレンの動きをすかさず剣兵が防ぎ、手の鈍った彼らを、陣の外側に回り込んだ小隊の槍が捉えていく。
騎士団を完全に包囲していたロブレンの軍勢は、次第に形を失いながら後退していき、遂にオルドス隊の隣で戦っていた部隊に騎士団の攻撃が及んだ。
次の瞬間、狂戦士オルドスは、若き騎士から決着の一撃を受けたのである。
ふいに訪れた静寂の後、ロブレン盗賊団は事態の重大さに気付き、口々に撤退を叫びながら、オルドスを引き連れて戦場を去っていった。ヴェルク騎士たちはそれを追うこともせず、自分たちが生きていることを思い出すかのように、静かに佇んでいたという。その瞳に、一振りの槍を手にした、若き騎士の背中を焼き付けて。
数日後、ヴェルク騎士団の元に、オルドスの死亡が知らされた。彼にとどめを刺した騎士の名声は立ちどころに広まり、その風貌から「白狼騎」という二つ名を冠されることとなる。
ヴェルクだけでなく、同じくロブレンによって苦しめられていた領の民も、彼を英雄と称えた。また、その翌年からヴェルク領では騎士を志願する者が倍増し、部隊長たちを悩ませたという。
この戦いの功績もあり、彼――「白狼騎」シナンは、若くしてヴェルク騎士団第二隊の隊長を務めることになった。歴戦の騎士たちを集めた第一隊と並び、騎士団の主力を担うこの部隊に属する者には、他の隊よりも高い能力が求められる。抜きんでた力を自ら身に着けようとしなければ、生ける伝説と肩を並べて戦うことは出来ないのだ。
「……よし。今日はこのくらいで……」
カムリはそう呟いて、剣を鞘にしまい、額の汗を拭った。彼は今、昼食を終えた後の空き時間を使っての練習を終えたところだった。屋内の訓練場には次にここを使う隊の騎士や、カムリと同じように自主練習に励む者もいるが、人影はまばらである。
騎士たちの日課はその前日の夜には決定して、部隊ごと、もしくはその中の中隊や小隊ごとに言い渡される。カムリのような新人の場合は、概ね屋内における訓練、文字の読み書きや騎士団の成り立ち、歴史等の座学、城内と周辺の巡回、清掃や食事の準備といった内容で構成されている。しかしもう数か月もすれば、別の隊を相手に実際の戦闘を模した演習を行なったり、討伐遠征にも出るようになるのだ。準備不足は自分だけでなく、他の騎士たちの命にまで関わってくる。時間が余るということはない。
出口へ足を向けたカムリは、自分の斜め前に立ってこちらを見ている人影に気付く。第二隊の副長であった。
「カムリ。今日は夜間の巡回では?」
訊ねる口調は問い詰めるというよりも、カムリを心配している様子である。略式の例をすると、カムリは溌剌とした笑顔で答えた。
「はい。ですが、まだ時間があるので」
「努力は感心するけれど、程々にね。しっかり休憩しないと夜がつらいぞ」
目尻が下がっているのと話し方が穏やかなので柔和な印象を受けるのがこの副長だが、シナンが不在の間の代わりを務めるだけあり、実直で人望の厚い人物である。カムリが元気そうなので安心したのか、彼はそれだけ声をかけると別の騎士の所に歩いて行った。
本当はもう少し体力が残っていたのだが、巡回も気を抜けない業務の一つだ。まだ城の周辺の安全な地域で、二人の先輩に同行するだけとはいえ、城壁から一歩外に出れば何があるかは分からない。ここは上司の忠告通り、早めに部屋へと戻ることにした。