あの日の思いを忘れることは無いだろう。
連綿と続く草原の民の誇り、その偉大な支柱を失った日。人々は枯れることのない涙に暮れ、空は禍々しい真紅に染まっていた。
父親は急所を貫かれ、その体をしとどに濡らしてなお、自らの城に帰ってくるまで息があった。むしろに横たえられ、彼は隙間風のような短い呼吸を繰り返しながら、確かめるようにこの頬を撫で、血の印を付けたのだ。

我が息子よ。
今日からはお前が、我らの王となるのだ。

その言葉をすぐに受け入れることは出来なかった。認められるわけがなかった。戦士の中の戦士と称えられた、最強の王であるはずの父が、なぜ。

どうした、それでも私の子か。

返事をしない自分に、父はいつものような厳しい眼差しを向けた。だが叱咤する声色には、もはや鳥を追い払う気迫すら残されていない。
次の瞬間、彼は引き攣るような声を上げた。それでも自らの命を逃がすまいとするかのように胸元を掴み、全身で最後の呼吸をしながら、父は静かに、静かにこう告げた。

お前が。

お前が、我々の誇りを守るのだ。

囁くようなその声色は、不思議なほど鮮明に、この心に刻み込まれた。
ああ、これが、人の魂というものなのか。
生まれて初めて、それに触れることが出来た、と思った。ようやく返事をした時には、父はもう、息をしていなかった。
「……。」
手の中の小石を弄ぶのをやめ、炎の音に耳を澄ます。
たった今、報告があった。仕事に出ていた三人の同胞が、ヴェルクの騎士に捕まったのだという。
彼らは一人で歩いていた旅人を獲物と定めたが、騎士に邪魔されて、倒されてしまったらしい。その旅人には手を出していないのなら、彼らの戻りはそう遅くもないだろう。
問題は、その三人を捕らえたヴェルクの騎士が誰だったかということだ。
「……そうだな」
立ち上がり、壁に立てかけた戦いの相棒を手にすると、周囲で話を聞いていた仲間たちもそれに倣った。
「久しぶりに、挨拶に行くのも悪くねえ」
偉大なる父から受け継いだ、この気高い血潮こそ、草原の真の王に相応しい。
それを証明するため、まずは父を死に追いやったかの英雄の命を、天に捧げねばならない。


−V 不羈の血族−



セルヴァニアにおいて、春は風と青空の季節である。ここ数日間、雨らしい雨は山の近くで、夜明け前や朝方にしとしと降ったくらいだった。程よく乾いた暖かな空気は、生き物から心身の滓を取り去って、健康で活発にしてくれると考えられている。同時に、様々なものが動き始める時候でもあるから、仕事という面では用心が必要とも言われる。
そんな世の中から隔離された、異界のような小さな空間に、シナンは朝から訪れていた。ショーレ砦の地下牢である。罪を犯した人間を一時的に捕らえておく所なので、世間から切り離されているのは当然といえば当然なのだが、土から染み出してくる水気で壁や床は湿っていて、黴臭く不快なぬるさを持つ空気が充満していた。勿論、窓も無いので、数日もいれば何かしらの病気にかかるだろう。
この地下牢には全部で五つの独房があって、それぞれが鉄格子で仕切られている。三人の盗賊たちは武器を没収されて、そこに一人ずつ収容されていた。シナンに対して、彼らは許しを請うでもなく、言いがかりをつけるでもなく、ただただ威嚇するような視線を向けているばかりだった。
「……お前たちは、ロブレンの人間だろう?」
質問にも、答える声はしない。しかし彼らの頑なな態度が、その代わりとなった。
孤児院の子供たちには受け入れられなかったが、騎士と盗賊は同じようなもの、というシナンの言葉は、単にその社会での役割が同じ、という意味ではない。
この草原の覇権を争っていた遊牧の民は、当時は男子に限ってではあったが、一定の年齢になると、自分と生を共にする馬を与えられた。それから一年間で、彼らはその馬と完全に通じ合うことを要求され、その技術と心が認められてようやく、男子は成人の仲間入りを果たした。それは同時に一人の戦士になることでもあり、つまり遊牧の民の成人男性は全員が、集団の繁栄のために戦う者たちであったのだ。
セルヴァニア王国の成立に伴い、かつて集団の「王」であった者が「領主」となると、彼を長としていた戦士たちは領主に所有され、その職務を支える「騎士」となった。彼らの役割は領地の存続のため資源を「獲得する」ことから、民の作り出す資源を「守る」ことに変わったのである。
しかしながら全ての「王」たちが、一人の国王による支配を認めたわけではなかった。彼らはアリオーンが草原の統一者であることを否定し、またいずれは自分たちが草原の覇者となるべく、これまでの生活――領地を拡張し資源を得るために戦うことを続けた。それが、現在「盗賊」と呼ばれている者たちだ。
つまり騎士と盗賊は、元々「戦士」だった集団が、建国を機に分岐した存在なのである。
騎士が領の土地や民を守るため戦うように、盗賊は生活に必要な食料や資源のため戦う。また、騎士が己の職務の正否を疑わないように、盗賊は昔ながらの生活を続けているだけだと考えているので、自分たちが悪であるとか、罪を犯しているという意識はない。それどころか騎士のことを、戦士の誇りを失った憐れむべき者たちだと捉えている。
そして、騎士団と同じように盗賊も中心となる根城と、その他に活動の拠点となる隠れ家を幾つか持っていて、特に彼らの根城というのは要塞と村を兼ねた巨大なものである。
国王の統治を拒んでいる盗賊には、セルヴァニアの国民としての身分は与えられていないので、彼らが拠点を築いているそれらの土地は、不法に乗っ取られているということだ。これは本来その土地を預かるはずの領地だけでなく、国にも直接的な損害を与えている事態なのだが、それが建国当時から現在まで続いているのには幾つか理由があった。
一つはアリオーンが、領地同士の武力衝突を全面的に禁じたことにある。
これは国法では「各領の騎士団は、いかなる理由があれ、その所属する領地外において武力を行使してはならない」と記述されている。騎士勲章をつけた人間は、たとえそれが護身のため、民を守るためであっても、他領で戦闘を行なうことが許されていない。その事実が明らかになった時点で処罰の対象となるため、騎士が他領に赴く場合は領境の砦で正式に手続きをし、その領地の騎士を伴って行動する必要がある。
盗賊たちは、この決まりを利用した。特に多くの人数を抱える盗賊団はその根城を、複数の領地にまたがる形で構えている。すると騎士団にとっては、その根城を制圧することで法に触れる恐れがあるため、簡単に手出しが出来ないのだ。
更に、異なる領地の騎士団が手を組むことも、他国との戦争状態などが発生しない限り許可されていない。そのため盗賊に対して騎士団が打てる最良の対策は、目の前で略奪を行っている者たちを残らず捕らえることなのだが、盗賊が欠けた人員を補充するのは、騎士団がそうするより遥かに迅速である。盗賊団は何らかの理由で村を追われた人間の受け皿としても機能している上、幾つかの技能が必要となる騎士に比べて、彼らに要求されるのは長への忠誠だけだからだ。
このヴェルクにおいても、領地の一部を占拠し、長年にわたって騎士団の宿敵で在り続けている集団がいる。城から北西、四つの領地にかかる巨大な根城を持つ、ロブレン盗賊団である。
自らを「大地の戦士の血を継ぐ正統な一族」と主張する彼らは、騎士団と同等の戦力、統率力を持ち、かつては中規模の拠点が制圧寸前に追い込まれたこともある。戦いを仕事とする者もそうでない者も、長には絶対的な忠誠を誓い、殊に長からの直々の指令とあらば、命を捨ててまでもそれを完遂しようとするほどだ。
しかもそれが長によって定められているのではなく、所属する個人の意思で行なわれているので、騎士たちからしてみれば非常に厄介なものだった。ロブレンに所属する盗賊たちは、どのような尋問を受けても、拠点の場所や襲撃の計画などを漏らすことがない。ましてや反抗を示すために自害することもあったので、今は情報目当てにロブレンの者を追い詰めるようなことはしなくなった。ただ、他の罪人と同様に、彼らの犯した罪に見合った罰が与えられるだけである。
それというのも彼らはその強固な仲間意識から、同胞が戦いの中で殺されたり、獄中で死んだと分かった場合には、必ず報復に出てくるからだ。時には正式に裁きを受けて投獄されている間にも、その仲間を奪還しに来ることがある。彼らをなるべく殺さないという方針は、シナンのように個人的な信条に由来している者もいるが、元々はロブレン盗賊団から被害を受ける領――ヴェルク、カインデル、エンドル、キームゼンの四領の主が合意の上で取り決めたものだ。ロブレンに受ける被害を少しでも減らしていくには、彼らに対して「正当な」処罰を貫くのが最善手とされたのだった。
こうして四つの領ではロブレンの盗賊を生きたまま拘留し、もしロブレンが要求するのであれば彼らが破壊したり奪った資源を償わせる条件で団に返すなど、交渉の材料として利用することで、必要以上に彼らの恨みを買わないよう対応してきた。
だが現在、彼らは主な活動範囲をヴェルクに絞り、執拗な攻撃を続けている。
じめじめとした異空間での会話は一つもないまま、やがてシナンは踵を返し、階段を上る。孤児院で盗賊の話をした時にもよぎった翳りが、その横顔にあった。
昨日の夕食の後、シナンはエイドと、これからの話をすることが出来た。彼の目的地は、ここから北西に位置するキームゼン領だという。シナンは改めて、ヴェルクの領境まで護送する提案をした。魔法の話をしたことで、彼は随分と心を開いてくれたように感じたが、それでも最初は迷惑をかけてしまうとか、城下町で乗せてくれそうな馬車を探す、と言って受け入れなかった。
だが、ここから都会の方に向かおうとしていて、しかも自前の馬車を持っているような商人は、どのみち騎士に護衛を頼むだろう。そもそもヴェルクにはそういう商人があまり寄り付かないので、すぐには見つからないかもしれない、そう説得してようやく、エイドは騎士による護送を了承したのだった。
その時すぐには聞けなかったのだが、シナンはエイドが口にした、「迷惑をかける」という物言いが引っ掛かっていた。少なくともその感覚は農民や商人といった、騎士に守られることが当たり前の人間には備わっていないからだ。シナンは寝台に入った後で、眠気が来るまで言葉の意味などについて考えていた。そうして彼が行き着いた結論は、「迷惑をかける」という表現は「本来は自分がするべきことを他人にさせている」とか、「本来はしなくていいはずの仕事を他人にさせている」時に使うのではないか、というものだった。だとするとエイドは、騎士と同じ力なり権利なりを持っているということになる。
そんなことを反芻していると、階段を登り切ってすぐのところで、エイドが準備万端という様子で待っていた。