今朝、彼はいつもの起床時間よりずっと早く、まだ星々のくっきりと見える頃に目覚めていた。というのも、寝室の扉をけたたましく叩く音がしたので、火事か、或いは襲撃かと飛び起きたのである。声で侍従の一人だと分かったので入室させると、彼はせかせかと一礼した後、ロランの傍までやってきた。そして、第四隊のルーカスから急ぎ届けるように預かったという、王の紋章を刻んだスカルドを差し出したのだった。
ロランは侍従に、机の上にある蝋燭の火だけを灯してもらうと、夜遅くにすまないね、と彼を労った。そして彼が部屋を離れていくと、すぐにスカルドを開封した。糊はある程度の暑さにこそ耐えられるが、直に火に舐めさせれば一瞬である。その一瞬が思っているよりずっと長くなることも、ロランは予測していた。今までに一度だけ、彼はこれと同じスカルドを受け取ったことがあって、それは先王の命が、病でもう長くないことを報せるものだったからだ。
ぴったりとくっついていた蓋が浮き上がり、ロランはスカルドを机の上に置いて、慎重に開封する。今回はというと、やはり中に入っているのは、折り畳まれた紙だった。
まだ内容など知る由もないのに、指先はかすかに震えている。何を大げさな、まだ悪い報せと決まった訳でもないのにと自嘲する余裕は、しかし手紙を読み始めてすぐに消し飛んでしまった。
血の気が引く感覚というものを久しぶりに味わい、ロランは吸い込まれるように、椅子に座り込んだ。それから、この報せを受け取ったのが未明で良かった、などと思った。スカルドの内容は、それを受け取った者以外が知っていてはいけない。今、騎士や侍従たちに対して、何事も無いような態度で接することは出来ないだろう。
例外的に、血縁者の一人――正しくは、自分に何かあった時に代理を務める者一人だけには、その内容を伝えておいても良いことになっているが、その対象者もつい昨日、孤児院への訪問に出かけたばかりだった。帰りは早くても、明後日の夕方以降になる。間の悪さに溜息の一つも出るが、既に起きてしまった事が覆る訳でもない。
それに、この報せが真実であれば尚のこと、彼をここで呼び戻すのは酷だ。
今はただ、その事実を受け止め、心を静かに保つべき時だろう。このヴェルクという地、そこに結びついた自身の魂と対話するため、ロランは目を閉じ、残り少ない夜という時間に身を委ねる。
この領地を、ここに暮らす民を守るために出来ること、そのために生まれるであろう、苦しい犠牲への覚悟について。

「わぁっ!?」
素っ頓狂な悲鳴につられて、ルーカスはぱちりと目を開けた。いつもと違う模様をした天井が眼前に広がっている。
彼は寝台の上に寝転んだまま、ぐっと伸びをして、昨晩起きたことを思い出した。彼はスカルドを受け取り、王都騎士団が立ち去った直後、馬を出してヴェルク城へと急いだ。城の騎士たちへの挨拶もすれ違いざまに、夜の番をしていた侍従の元に直行して、すぐにロランへ渡すように伝え、スカルドを預けた。よほど鬼気迫る顔をしていたからなのか、侍従もただならぬ状況を察してくれたようで、程なく戻ってくると、届け物は間違いなくロランの手に渡ったと伝えた。
その頃には酒気など微塵も残っていなかったが、普通なら一日は必要なカロン砦から城への道を一晩のうちに駆けてきた疲れ、そして緊張が一気に緩んだことで、ルーカスは扉が開いていた、適当な客室に入って眠ってしまったのだった。
本来、騎士が領主の客人用の部屋を使うなどあってはならないのだが、今回ばかりは仕方がない。そもそも侍従にも止められなかったし、二階をうろついている間に他の部隊長にでも見つかって、何故ここにいるのか問い質される方が面倒だ。特に、城にはそういうことをなあなあで済ませてくれない部隊長しかいない。
「悪いな……ちょっと待ってくれ」
ルーカスはごろごろと体勢を整えると、まずは上半身だけを跳ね起こして、顔をごしごし擦った。それから、寝台に腰掛ける姿勢になってようやく、悲鳴の主の方に目をやった。
「……。」
「……あ?何だ、誰かと思ったらカムリか」
部屋の入り口に立ち尽くしているのは、防具を身に着けていない代わり、木の桶と薄汚れた布を持った年若い騎士だった。正式入団からようやく二年経つはずだが、頬のそばかすも手伝って、まだまだ少年の面持ちが抜けきっていない。
「あ、あの、どうしてこちらに?」
「いや、ちょっと用事があってな。夜中に来たんで特別に使わせてもらってた」
彼、カムリはルーカスと同郷の出身であった。カムリがまだ言葉を喋れない歳の頃から、ルーカスは彼のことを知っていたので、付き合いは十年を優に越えている。カムリはというと最近になって、やっとルーカスを「兄さん」と呼ぶ癖が直ってきたところである。
「まだ使われるなら、先に他の部屋を……」
「いや、大丈夫だ」
多くの地方騎士団の拠点では、そこに生活する騎士が城内の掃除や、設備の点検を行うことになっている。そして、その役割は主に、新人に対して割り振られる。自分が配属される拠点の構造を把握し、その細部の異常にも注意を向けられるようにするという目的のためで、早く現場に出たいとうずうずしている新人たちには不評だが、基礎的で重要な職務なのである。
とはいえ、こうして領主の居住空間までも騎士が担当することは、あまり一般的ではない。これはヴェルク領主の意向であり、騎士が無断で見てはいけないものなど領主の書斎や寝室にしかないのだから、それ以外の部屋なら入っても問題はないだろうと、人手が余っているときは客室や談話室の清掃も許可している。特に今日は、客人が来ているという話もされなかっただろうから、カムリはそのつもりで扉を開けたのだ。驚くはずである。
ルーカスは適当に脱ぎ散らかした防具を手早く装着すると、古い外套を上から羽織った。
「本当にもう帰られるんですか?」
「ああ。いつまでも油を売ってると副長がうるさいからな」
「でも、朝ごはんも食べてないんじゃ」
「……まあ、町で何か腹に入れるさ」
果たしてそんな金を持っていただろうかと自分を疑いつつ、ルーカスは部屋を出る。その際にカムリの肩をぽんと叩いて、がんばれよ、と言うと、彼は背筋をぴんと伸ばして返事をした。
カムリが所属しているのは、城に常駐する部隊である第二隊、シナンが隊長を務めている所である。ヴェルク騎士団の主戦力の一つに数えられ、実力が基準に満たないと判断された場合は、他の隊に異動となることもある。まだ実戦に出たこともないらしいので仕方ない部分もあるが、カムリはその見た目からしても、やや頼りない。しかしその実直さや根本的な正義感については、第二隊の一員として充分に推せる、とルーカスは思っている。最も、本当の評価は、「戦力」としての仕事を務められるようになってからだろうが。
真っ直ぐに城を出ようとしたルーカスだが、せめて顔くらいは洗おうと、一階にある水場に向かう。その途中、ふと窓から外を覗くと、城の西側に造られた訓練場が見えた。今日は弓騎士隊が使っているらしく、的に矢を突き立てる鋭い音と、弦が弾む音とが不規則に響いている。
観察していると、遠方からでも目につくはずの、弓騎士隊隊長の姿が無いことに気付く。人数もいつもより少ないように見えるので、野外演習にでも出ているのだろうか。
この弓騎士隊が他の部隊と同等の戦力として成立したのは、つい六年ほど前の話だ。弓を扱うことの出来る団員はある程度在籍していたが、それはいわゆる副業であって、実戦でも射撃による牽制を行なった後は、騎兵や剣兵として戦う流れが主だった。
だが現在の弓騎士隊隊長がヴェルク騎士団に入団すると、その腕前を慕って教えを受けようとする騎士が続出し、やがてその人数は一個隊を形成できる程になった。今や、弓騎士隊は高い機動力と、遠方からでも的確に目標を射止める精密な技によって、定期的に行われる部隊同士の模擬戦闘においても侮れない相手となっている。
「……。」
何か面白くない気持ちになってきて、ルーカスは窓辺を離れ、一階へと急ぐ。自分は、一人の地方騎士である。王都の騎士と違って、同じ使命を背負って働く人間を、理由も無く下に見たりはしない。ましてや、同じ領主に仕える正真正銘の味方に、敵意を抱く必要などどこにもないはずだ。
それでも時折、ルーカスは弓騎士隊や第二隊の長のような人物の存在に、不安を覚えることがある。
器が足りないというわけではない。むしろ、団の中でも屈指の実力を持つからこそ、皆に認められ、その立場を得たのだ。ルーカスも、今あるヴェルク領の平穏は、彼らの活躍による所が大きいと思っている。
嫉妬と言われればそれまでだ。ただ、彼らの心が本当にヴェルクと共にあるのか、そんな疑念が忘れかけた頃に、また浮かび上がってくるのである。
だが結局の所、領主であるロランがそれを良しとしているのなら、自分は異を唱えるべきではない。少なくともロランについては、騎士と領主という身分を除いても、全面的に信用に足る人物だ。
スカルドの件で動揺したせいか、らしくもなく荒れた思考になっているようだった。ますます頭を冷やしてからでなければ、砦に戻ってうっかり口を滑らせるかもしれない。
こんなことを言えば、また袋叩きにされるのだろうが――あのスカルドが、ヴェルクやこの国に訪れる災いの前兆であったなら、それが自分の疑念に正否を突きつけてくれるだろうという期待が、彼の中にはあった。