「……ったく、何だってんだ?人の楽しみに水差しやがって」
幅と長さに対して控えめな松明が照らす薄暗い廊下に、男の低い声が響く。彼の猫のような目は不機嫌を隠そうともしておらず、先導する部下は気まずそうに応じる。
「申し訳ありません、何を聞いても部隊長を呼べ、の一点張りで……」
「さぞかし重要な話なんだろうな、楽しみだぜ」
台詞とは裏腹に、その口角が僅かに上がることも無い。顔が赤らんでいるのは、つい先程まで酒を飲んでいたせいである。今日は非番の者を集めて、日没の後から軽い酒盛りをすると前々から決めていたのだが、二杯ほど呑んだところで門衛が呼びに来て、離席せざるを得なかったのだ。
このカロン砦は、ヴェルク騎士団の拠点の一つであり、中規模の砦の中では最も東に位置している。ここから南東へ向かうとヴェルク領境、更に王都騎士団の駐屯地を挟んでセルヴァニアの国境があるのだが、その駐屯地から突然の来客がやって来たらしい。当然、門衛は要件を訊ねたのだが、部隊長に直々に伝えなければならないと言い張り、応じなかったのだという。
王都騎士団が訊ねてくることは頻繁にはないが、立地上珍しいことでもない。ただ、男は王都の騎士特有の威圧的な物言いや振る舞いが好きではないので、普段はなるべく顔を合わせないようにしていた。
騎士とは領主が所有する戦力であり、「士」という身分が与えられている。これは農民や職人、商人が属する「民」の一つ上、領主が属する「候」の一つ下になり、文字通り民と領主を繋ぐ役割も持つ。これがセルヴァニアの首都である王都直轄地になると、領主は国王に置き換わり、騎士は貴族出身の者が殆どを占めてくる。
セルヴァニアにおける貴族とは、建国のきっかけとなった三百年前の戦争で、初代国王でもある英雄アリオーンを支えた勇者の血を引く者たちである。彼らには「候」よりも上の「臣」という身分が与えられていて、国王の政務に直接携わる権利を有する。しかし彼らが騎士となった場合は、騎士としての肩書きと身分が優先され、家柄ではなく階級によって扱われることになっている。
だから、貴族の出身であろうが騎士団の中で一兵卒として扱われているなら、地方騎士団の同じ階級の者とは対等に、部隊長が相手なら目上の人間として接するべきなのだ。それなのに、王都騎士団の連中はどこか、「民」の出である地方の騎士を下に見ている節がある、と男は思っている。今よりもう少し若かった頃は、戦ってでもみればどちらが騎士として格上か分かるのにな、などと発言し、同期の騎士たちに不謹慎だと袋叩きにされたこともあった。
ともかく、王都の騎士はちょっとした連絡事項にもえらく時間を割くので、今日は自分に出来る最も丁重な応対で、速やかに帰ってもらおうと男は決意する。何せ、折角の宴を邪魔されているのだ。両の頬をぺちんと叩くと、仕事用の笑顔を作る。赤らみは抜けていないが、それはこんな時にやって来る方が悪い。
砦の外に出ると、斜面を緩やかに下る階段が続き、それが途中で防壁と交差して、大きな扉を構えている。片側だけが開いていて、その傍らの松明についた炎が、見慣れない人影を浮かび上がらせていた。
彼は部下を入り口で立ち止まらせると、軽く息をつき、早足に扉へと向かった。
「お待たせしました」
火の煌めきを鮮やかに照り返す鉄の防具を身につけた、険しい顔をした騎士が、屈強そうな馬を伴って立っている。
「貴公が――」
精一杯の親しげな表情で挨拶したのだが、何故か不信感を与えてしまっているようだった。王都の騎士は男を上から下まで、確認するように凝視した後で続けた。
「この砦の?」
「ヴェルク騎士団第四隊隊長、ルーカスと言います。急ぎの用とのことでしたが」
階級と名前を伝えて尚、王都の騎士は眉根に皺を寄せていたが、ルーカスは微笑みを保った。次の言葉を待っていると、視線をちらちらと、残っていたもう一人の門衛に向けているのに気付く。
ここから外せ、ということらしい。
こちらに名乗らせておいて自分は名乗らないし、用件だけは通そうとする。全く腹立たしい。心の中で呟きながらも、ルーカスはその門衛にも、しばらく下がっているよう伝えた。 その姿が充分遠ざかり、門の前にいるのがルーカスと自分だけになると、王都の騎士は無言のまま、懐から何かを取り出した。喋りたくないんだろうか、などと考えながら受け取って、炎の黄色い明かりの中に目を凝らす。
「それ」が何なのかが分かった瞬間、ルーカスは体の中にあった僅かな酒が水に変わるのを感じた。
大きさは片手に乗るほど、厚みは指の関節一つ分ほどの、正方形の金属である。これは実は容器で、上半分は蓋として外れるのだが、特殊な糊で封をされていて、素手では開けることが出来ないようになっている。スカルドという、重要な情報のやりとりに使われる道具である。
この容器に使われている糊は、熱に直接さらさなければ溶かすことが出来ず、一度溶かしたものはそれ以上使えなくなってしまう。その性質から、目的の人物以外が開封することを防ぐために使われ、国王の許可無く製造したり、販売したりすることは禁じられている。
ルーカスは存在こそ知っていたこの道具を、実際に見るのはこれが初めてだった。しかし、とても喜ばしい気持ちにはなれなかった。一部の人間にだけ知らせたい情報など、ろくでもない内容だと相場が決まっているし、何よりこのスカルドの蓋には、馬と鷲の紋章が浮き彫りにされていたからだ。
それは王都騎士団の紋章であると同時に、王都を統べる者――すなわち王の証でもある。
「……これは」
生唾を飲み込み、ルーカスがようやく出した声を遮って、王都の騎士は告げた。
「それをヴェルク領主、ロラン=ハーメルン様に、可能な限り早急にお届け願いたい」

ユク村の孤児院で銀髪の少年が保護されたのと、それは同じ夜のことであった。


−U 辺境の領ヴェルク−



ほんの三百年前まで、「セルヴァニア」は国ではなく、割拠する遊牧の民によって長い戦争状態にあった、この草原全体を指した。
遊牧の民は、血縁を基にした社会集団を形成し、その各々の長が「王」を名乗っていた。彼らは拠点となる要塞を築き、農耕の民を襲って略奪と支配を行い、領土や資源を巡って近隣の集団と戦った。やがて多くの集団が淘汰され、同規模の勢力が複数残ったことで膠着状態となってからも、広大な領地と草原の掌握を求める彼らが、完全な平和を選ぶことはなかった。
その歴史に区切りを付けたのが、当時の隣国、魔道国ギムドによる侵略である。
草原の民にとっては自然と心を通わせ、未来を予見する神聖な術であった魔法を、ギムドの人々は破壊のために用いた。彼らの起こす風が家々を吹き飛ばし、炎は森を焼き払い、抵抗するすべを持たない草原の人々を深い恐怖に陥れた。しかしその経験が、遠い昔から敵対しあってきた遊牧の民の間に、協力して草原を守るという新たな意識を芽生えさせることとなった。ギムドから草原を取り戻すため、遊牧の民たちは初めて、一つの戦力として団結したのである。
「黒霧戦争」と名付けられたこの戦いの後、その考えは戦いを生き抜いた「王」たちによってより深く話し合われ、やがてこの草原を一つの国として統治するための新たな体制がまとめられた。
そして、戦争の英雄アリオーンを初代国王とするにあたり、これまで「王」を名乗っていた者たちは「領主」へと名前を変えた。彼らは戦争が起こるまで支配していた領域と、周囲に存続の難しくなった領地があればそれを分割し、再分配した範囲を、国王から預かる形で代わりに統治する存在となった。こうして一人の王と、彼に認められた領主たちによって治められる国、セルヴァニア王国が誕生した。
現在、セルヴァニアは国王が直接治める王都直轄地を含めた、九つの領地に分けられている。その東南の隅、隣国とも程近くに位置するヴェルク領は、先の戦争で最も甚大な被害を受けた領地の一つである。人々の生活が立て直されてくると、アリオーンは特別に支援を行い、ヴェルクが隣国からの攻撃に対する最初の防衛戦として機能するよう、拠点の修繕、改築、増築などを行なった。その結果、元々争いを好まず、周辺の領地とも友好関係を保っていたヴェルクの城は、物々しささえ感じるほどの頑強なものとなった。
小さな山の一部を切り崩して建てられていたヴェルク城だが、更に広い範囲が整地され、主に倉庫や兵士たちの演習場などが拡張された他、城壁は二重になり、また領民が一時避難するための空間も作られた。それらは主に一階や屋外に集まっていて、書庫や食堂なども同じ階に含まれている。二階は騎士たちの寝泊まりする部屋が殆どを占め、一部は部隊長が個人的に使うことの出来る自室、彼らの使う会議室などがある。地下には付近で捕らえられた罪人を収容する牢があり、最上階は領主の居住空間である。ここには領主の寝室と書斎などがある他、客室も数室準備されている。
この城の二階より上に行くと、城壁を越えて、山の麓に広がる城下町ラースを望むことが出来る。
もう何十年も見続けてきたその風景が、今日は妙に美しく感じられて、彼はしばらくの間、窓辺に佇んでいた。成人男性にしては細身で、やや小柄だが、しっかりと伸びた背筋からは、その身に宿るしなやかな強さが窺える。年の程は初老を迎え、赤茶色の髪には白髪が目立ち始めていた。
ロラン=ハーメルン、セルヴァニア王国の建国以前より続く血統を持つ、当代のヴェルク領主である。