何か脅威に遭遇して、がむしゃらに走り続けたのなら、詳しい道筋など記憶になくても無理はない。だが事情を伏せたいのなら尚更、その通りに言えばいい話だ。少年はグレンが遠回しに仔細を訊ねても、分からない、憶えていないとしか答えなかった。
加えて、少女と見紛う白皙と、上質な衣服や腰に差していた剣。その剣が単なる護身用にしては、銀色の美しい装飾がされていたこと。それらが泥だらけの靴や怯えた様子と結びつかず、グレンは頭を捻っていた。
そして朝食を食べ終えた後、グレンは少年に、ある提案を持ちかけた。今日は偶然、この領の騎士が子供たちを教えにやってくる。もし、命の危機を感じていたり、どこか行かなければならない場所があるなら、融通することが出来るかもしれない、という内容である。
少年は、考えさせてください、と言って保留していたのだが、また眠ってしまったらしいので、返答はもう少し後で聞くことになるだろう。
「……この間までラドアルタに?」
「そう言っておったが」
シナンは視線を逸らして一瞬、難しそうな表情を浮かべたが、すぐに明るい面持ちに戻る。
「分かりました。その子さえ良ければ、領内には限りますが護送しましょう。最近、盗賊たちも動きを見せているようですから」
「ありがとう。恩に着るぞ、シナン」
グレンはほっとして笑みを見せると、杖を突きつつ一足先に、食堂へと向かう。
「奴らも懲りないね。騎士団も大変だろう」
「ああ……なるべく争いたくはないが、難しいな」
ユウィンが世間話の口調で言うと、シナンは軽く笑って応じた。その横顔に一瞬の憂いが、水底の影のようによぎって、どこへともなく消えた。
「シナン先生、また悪いヤツをやっつけたの?」
アーロは食べているものを飲み込む時間も惜しい様子で、口をせわしく動かしながら話しかける。
昼食の内容は朝とほとんど同じだったが、食卓の中央には、小さな壺に入ったユクベリーの甘煮が置かれている。焼いたり蒸したりして食べやすくしたクラットに塗るもので、こうした品はそれぞれの農村で特産物を用いて作られている。
「ああ、この間は南にある、キニンという村だった」
「やっつけたんじゃなくて、捕まえたんですよね」
カイが訂正すると、アーロは目をぱちくりさせた後、露骨に不機嫌になった。
「あのな、おれだってそのくらい知ってるよ。でも、ただ捕まえるだけじゃダメなこともあるんだぜ。やっつけて、ハンセーさせないと分かんないヤツもいるんだ」
「それも正しい」
シナンはユクベリーが特別好きな訳でもなかったが、この村以外にはない味なので、故郷に帰ってきたという気持ちが湧いて、いつも多めに食べてしまう。
「そうだね、アーロが院長先生にげんこつされるのといっしょで」
その発言にユウィンが水を吹きかかり、アーロはますます熱くなって食卓に手をついた。
「おまえ、あとで見てろよ!」
「お行儀が悪いぞ、アーロ」
だが、グレンが静かに注意すると、すとんと腰を落として食事を再開する。少し場が静かになった頃、シナンと目の合ったカイが、遠慮がちに訊ねてきた。
「……でも、どうして先生は、悪い人たちを殺さないんですか?」
二人の言う「悪い人」とは、村や町から略奪を行うことで生計を立てている、盗賊と呼ばれる者たちである。
彼らは集団ごとに一か所、生活の拠点となる大きな住処を構えている。普段はそこで暮らしているが、足りなくなったものや新しく必要になったものがあると、近隣の村や町へそれらを奪いに繰り出すのだ。
力を持つことを許されていないセルヴァニアの民にとって、彼らの存在は身近な脅威である。盗賊たちは奪えるのであれば、食糧や衣類、農具や建材、果ては女性や子供をも標的にする。彼らの動きを監視し、襲撃を未然に防ぐため、また奪われたものや人を取り返すために戦うことは、騎士団の主な仕事の一つだ。
その中で、騎士が盗賊の命を奪うということも、当然ながら起こる。
罪を犯した者を処刑することは本来、王と領主だけがそれを行う権利を持ち、そうでない者はいかなる理由であれ、個人的に攻撃や復讐を行なうことは出来ない。もし、行動の結果として殺してしまったのであれば、それは一般人を殺したのと同じ罪として扱われる。
しかし騎士たちには、領地に損害を与える行為――人々に対する略奪や暴行を確認した場合、殺害を含むあらゆる対処が特別に許されている。それは盗賊を殺すことを命じているのではなく、彼らを捕らえる際には戦闘が発生するという前提の上で、騎士が自身や仲間、民の命を守るために盗賊集団から死者を出しても罪には問わないということだ。
それでもシナンは無用な死を嫌い、子供たちにも、強くなる目的は悪人を殺すためではなく、救うためだと繰り返し教えている。一方で、民は彼らの存在に常に怯え、その脅威がなくなる日が来るのを待ち望んでいる。カイの疑問は、民の命を守ることが務めである騎士が、その敵の命も守ろうとしている矛盾から生じていた。
「そうだな……」
シナンは一度、食事の手を止めると、言葉を探して宙に視線をやった。
「……彼らも、俺たちと同じだから、かな」
「どこが?」
アーロが色濃い否定の語気を含んだ声を上げる。
「騎士と盗賊は、本当は同じようなものなんだよ。君たちの言う『悪い人』というのは、ものを盗んでいく人たちのことだろう?」
「そうだよ。ものだけじゃない、人をさらったり、殺したりするじゃないか。騎士と同じなわけがないよ!」
やや興奮しているアーロを、シナンは彼をじっと見ただけで宥めると、それに答える。
「けれど、アーロ。そうして村や町を襲いに来るのは、盗賊の中でも一部の人たちなんだ。ちょうど俺たちみたいに、戦ってものを手に入れることが彼らの役割なんだよ」
「そうじゃない人もいるんですか?」
「ああ。服を作っている人や家を建てる人もいるし、食べ物を作っている人だっている。狩りをしてくる人もいる。道具を作る人もいるし、動物の世話をする人もいるだろうな」
「じゃあ、どうしておれたちから盗むんだ?」
シナンは残り少ないスープが入った、木の器を二人に示した。
「例えば、スープを入れる器が皆に一つずつしかないのに、一つが割れてしまったとしよう。そして、この村に器を作れる人がいなかったとしよう。どうする?」
「鍋から飲む」
「……やけどするよ、アーロ。多分、この村で作ったものを別の村や町に持って行って、器と交換してもらうんだと思います」
大真面目な顔をして答えたアーロをたしなめて、カイがそう答えた。
「そう。俺たちは普通、足りなくなったものとか、すぐに作れないものを、何かと交換して手に入れる。でも、彼らは欲しいものがあったら、自分の力で手に入れるのが正しいと考えているんだ」
「どうして?」
「それは……難しいな。彼らがそうだから、としか俺には言えない」
アーロとカイの眉間に縦の筋が浮いた。アーロは納得がいかないという風で、カイは何かを一生懸命、理解しようとしている風だった。
「……あ、そうか。どうして殺さないのか、だったな」
シナンは既に冷たくなりかけているスープをぐいと飲み干して、話を続ける。
「つまり、盗賊というのは、欲しいものを手に入れる方法が違うだけで……それ以外は、俺たちとほとんど同じなんだ。だから本当は、取り合いも、まして殺し合いも必要ないはずだと、俺は思っている。村や町同士が、ものを取り合って争ったりしていないように」
「戦わなくてもいい、ってことですか?」
「もちろん、今はそうはいかない。彼らがヴェルクの人々から奪おうとするのなら、俺たちはそれを守り、取り返すために戦う。だが、いつかは奪い合いをしなくて済む方法が見つかって……盗賊が、『悪い人』じゃなくなる日が来るかもしれない」
そこで改めて二人の顔を見やり、まだ分からないかもしれないな、と苦笑する。
「でも、殺してしまったら、その人はずっと『悪い人』のままになってしまう。……それだけは、本当に取り返しのつかないことなんだ」
その言葉の半分は、彼が自分自身に向けたものでもあったが、察したのはグレンだけだった。アーロとカイは、やはり険しい顔をして、その意味を噛み砕こうとしている。
そしてもう一人、彼の話を密かに聞いていた者がいたのだが、息を潜め誰にも知られることのないまま、静かにその場を立ち去った。
「しかし、シナンも立派になってくれたよ」
昼食の食器を洗い終えて窓辺に並べているユウィンが、誰にともなく呟く。とはいえそれを聞いていたのは、朝干した洗濯物を取り込んできたマーサだけである。
「本当にね。彼のお母様も、きっと喜んでいるでしょうね」
二人も、かつてはこの孤児院に暮らす子供だった。体を動かすことが得意ではない代わりに、年下の子供たちの面倒を見るのが好きだったユウィンは、特別に文字の読み書きだけを教わって、グレンの仕事を手伝うようになった。一方、男の子とも張り合う勝ち気な性分であったマーサはユウィンが職員になることを知ると、気迫に欠ける彼を案じて「教育係」を買って出たのである。
つい今し方、甲高い歓声が聞こえて外を見てみると、女の子たちが帰ってきていた。騎士を志望しない子供は、村のどこかの家に預けられて手伝いをし、農作業等のやり方を教わるのが日課である。いつもは夕方頃に戻ってくるのだが、今日はシナンが来るというので、急いで仕事を終わらせてきたのだろう。
アーロとカイに指示を出すと、シナンはグレンに呼ばれて、女の子たちに挨拶をしに行った。よく見ると、三人の女の子たちはそれぞれ手作りの花飾りをつけて、今日手伝った家で分けてもらったのだろう、木の実や果物の入った籠を皆で抱えている。
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