「相変わらず熱烈だなあ」
「そうねえ。……シナンには恋人がいること、いつ頃言おうかしら」
「本人は否定してるだろ?」
「本人だけよ。ロラン様もそのおつもりなんでしょ?」
シナンはその特異な髪と目の色が、会う人の心に強い印象を残すのであるが、よく見ると彼は、顔立ちも少し変わっている。肌もセルヴァニアの一般的な色と比べると濃いので、もしかすると西方のカレオの血が入っているのでは、という推測もあった。しかし、カレオ地方にも白い髪や琥珀色の目は存在しないという。
何にせよ、シナンの纏っている異邦の空気が、男女問わず人を惹きつけるのだとユウィンは思う。かつてはそれが人を遠ざけるという、真逆の効果を持っていたことを知っているので、尚更に感慨深かった。
孤児院に来た当初、シナンは誰に対しても心を閉ざし、会話すらしようとしなかった。何らかの事件に巻き込まれる形で母親を亡くし、その亡骸と共に冬の夜を越えるという体験をしているのだから無理もないことだが、それが原因で他の子供たちと喧嘩になることも毎日のようにあった。ただでさえ、その頃の彼には暗澹とした雰囲気がつきまとっていたのに、「普通」とは違うその風貌が尚更、他の子供たちを良くない方向に刺激していたのである。
そんな彼が変われたのは、グレンの熱心な教育の成果でもあるし、幾つかの幸運な出会いのためでもあるだろう。だがユウィンは、それがシナンの本来の姿だったのだと信じている。彼には元々、大切な人を守ろうという強い気概がある。彼が抱いていた憎しみは、その裏返しだったのだと。
ばさり、と音がして、ユウィンは庭の風景から視線を外した。マーサが洗濯物を落とすなんて珍しい、と思いながら廊下に出ると、彼女は奥の寝室の前で、洗濯物を拾おうともせずに立ち尽くしている。
訊ねるまでも無く、嫌な予感がした。そこは使われなくなって随分経つ寝室だが、つい昨日から、ここに客人を泊めていたからだ。
マーサに代わって室内に踏み入ったユウィンが見たのは、開け放たれた窓と、その下に移動された腰掛けだった。
少年の姿が荷物ごと、跡形もなく消えていた。
無くなっているものがないことは確認した。
朝食と昼食の間に、少年は体を拭きたいと言って、水と布を持ってきてもらうと、部屋の中に一人になった。その間に、窓の高さや大きさを確認すると、昼食を終えた後、まずは荷物を外に出した。
それから眠ったふりをして、こちらへの注意が薄くなるのを待つと、職員たちの気配が遠ざかるのを見計らって窓から抜け出した。荷物を回収して、後は村から一刻も早く離れようと、がむしゃらに走ったのである。
早く、一人にならなければ。自分のせいで、彼らの平穏が崩れるようなことはあってはならない。
体を拭くのに使った道具を返しに行った時、子供たちの指導に来たという騎士が話しているのを聞いた。姿までは見えなかったが、その内容だけでも、ここの領主や騎士たちが優れた人物なのだろうと確信を持った。それは、この領に暮らしている人々の、満ち足りた様子からも明らかだった。
だから、彼らのことは何としても守らなければならない。
少年は一心不乱に西へと走り続けたが、いよいよ空に黄昏の色がかかってきた頃、また足が止まった。手当を受けたとはいえ、まだ治りきっていない傷がひりひりと痛む。
近くで、行商の馬車が通るような町があるかを聞けば良かった。しかし、そうまでして騎士との関わりを拒む理由を、用意することが出来なかったのだ。
このまま西に向かえば、キームゼンという大きな領地に着く。領境付近には、人の集まる大きな町もあるだろう。硬貨も三百フロムほど、これはセルヴァニアの東端と西端を一往復するにも充分な額であるから、そこまで行けば到着したも同然だ。
休んでいる時間は無い。
枷を繋がれたように重い足を踏み出す。その時、真っ直ぐに目を射る黄色い光線の中に、先ほどまでは見えなかった影が並んでいることに気付いた。
それが馬上の人影であることが分かり、少年の息が止まる。
「お疲れのようだね、坊っちゃん」
馬装は最低限。騎士であれば所属する領を色や紋章で表した、長い障泥をつけているが、それは確認できない。目が太陽に慣れてくると、人間の方は上半身に革の防具をつけていたと思ったら、手だけは金属のものを装備していたり、随分使い古されているものから新品に近いものまで、まとまりがなくちぐはぐだった。
「どうだい、乗っていくか?もちろん、タダでとはいかねえが」
防具だけではない。彼らの着ている服も、破れやほつれを全く違う布同士で継ぎ接ぎしたものだ。
すなわち彼らの持ち物、着衣や手にした武器、そして馬までもが色々な所からの寄せ集め、奪われたものであること――それを少年が解するのに、そう長くはかからなかった。
盗賊。略奪を生業とし、王国の法に抗う者たち。
「……。」
「無理すんなって、急いでるんだろ」
手が震え始める。相手は三人、戦うのなら勝ち目は薄い。逃げるにしても、不用意に背中を見せれば、交渉を拒否したとみなされる。
ならば、彼らが要求するものを、言われるがまま与えるのが正解だろうか。恐らく彼らは、欲しいものが手に入れば、命まで取りはしない。殺すつもりならわざわざ声をかけたりはしないだろうし、自分は最初から一人で、もっと前に襲う機会があったのだ。それに、意外にも約束を守って、目的地まで自分を運んでくれるかもしれない。
だが。
「……。」
それだけは受け入れられない。
これは利害の問題ではなく、血や魂、矜持にまつわる問題だ。
自分は盗賊にだけは、屈してはいけない。少年は目を伏せて、一欠片の勇気に火をつけると、再び開いた瞳に盗賊たちへの敵対を露わにした。
「……おっかねえ顔しやがるぜ、困ったなあ」
三人はにやにやと顔を見合わせる。少年はその間に、腰から下げた小さな鞄へ手を差し入れた。狙うのは一瞬の隙だ。少しでも威力を認めさせれば、こちらにも分はある。戦いを回避することが出来る。
「……、……っ!?」
どうにか活路を見出そうとする少年の意思を砕くように、心臓が嫌な鼓動を打った。彼の唯一の頼り――希望の象徴でもあったものが、鞄の中に見当たらない。
さほど多くない荷物だ。出てくる前にも、孤児院からの脱出に成功した後も、中を検めた。その時には確かにあったのに。
隠しきれない動揺を、盗賊たちも嗅ぎ取ったようである。
「おや、どうした?汗だくじゃねえか」
「お小遣いでも落としたか?」
「残念だ、じゃあモノで払ってもらわねえとな」
草原のどこかで落としたなら、もう見つかる期待も薄い。少年に残された力は、腰に差した剣だけだ。
「……断る」
掠れた声を絞り出し、盗賊を睨みつける。
「そこを退け。お前たちと話している暇は無い」
「……だってよ。どうする?」
「仕方ねえなあ」
斧を手に持った一人が馬を降りた。少年を見る目が、先程までとは明らかに違っている。
「そんなら、さっさとシメようぜ」
少年は半歩下がり、剣の柄をしっかりと握る。残る二人も馬を降り、こちらへ向かってくる。数の不利を覆すためには、相手を一人一人潰していくしかない。
しかし、本当にそれで良いのかと、少年は剣を抜くことが出来ない。彼らが自分を殺さなかったとしても、自分は、身を守るために彼らを殺してしまうかもしれない。
もしそれが、この領の騎士の仕業だとされたら。
相手が斧を振り上げる。せめて防がなければと、ようやく柄を引いた。すると、空を切る音がすぐ近くに聞こえ、それに驚き、動きが止まってしまう。
ああ、間に合わなかった。
少年はもはや、瞼を閉じることもせず、目の前の光景にただ、曝されていた。盗賊たちは攻撃が届く寸前の距離で足を止めている。時間が止まってでもいるのだろうか、と混乱する少年の視線が、盗賊と自分との間を遮るものを捉えた。
それは地面に突き刺さった、木製の槍であった。
呆然としていると、足音が近づき、槍が引き抜かれる。
「――これは警告だ。傷を負いたくなければ、武器を捨てろ」
その背中で盗賊たちの表情は見えなくなったが、少年が彼らに気付いた時と同じように、彼らが息を呑むのが聞こえた気がした。
「ま……まさか、こいつ!」
盗賊たちは後ずさりしつつも、恐れと敵意を剥き出しにして武器を構える。
「違いねえ。先代の仇だ!」
槍の持ち主――白髪の騎士は少年を振り返ると、穏やかな声で告げた。
「すぐに終わる。少し、そこで待っていてくれ」
瞬間、体の力が抜け、少年はその場に座り込んでしまった。自分は助かったのだ、と思った。騎士と盗賊たちはまだ、一度も刃を交わしていない。それなのに、まるで筋書きを知っている演劇を見るような。
訓練用の木の槍を手に悠然と立つ騎士の後ろで、ついぞ出番の無かった銀の剣は、今もかすかに震えていた。
雲一つない穏やかな春の日、後にセルヴァニア内乱と名付けられる災いが、辺境の地で静かに幕を開けた。
(「銀星の降る」 了)
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