一般的に七十歳まで生きれば長生きしたとみなされるセルヴァニアで、八十年生きていて、尚且つ病も患わずに生活しているグレンは、かなり希有な存在である。そんな彼の人生で最も衝撃的だった事件の一つは、たった十五年前の、ある冬の日に起こった。
それは静かな灰色の朝だった。グレンはその日も、孤児院の中で一番早くに目が覚めてしまって、かといって散歩に出る気にもならず、寝台の中で体を縮こめていた。時折、裸の枝の軋む音が風に乗ってくるのが、誰かの溜息のように聞こえて、妙に耳に残るのだった。
そこにいつの間にやら、聞き慣れない音が混ざっている。小さく、響きの弱い柔らかいその音は、一定の拍子を保って伝わってきていた。しばらく注意を向けていたグレンは、やがて起き上がり、すり足で玄関へと急いだ。小さな手が、一心に扉を叩いている光景が脳裏をよぎったのだ。
扉の閂を外し、そっと隙間を開けると、ちょうど子供の背丈の位置にある拳が見えた。脅かさないよう、ゆっくりと扉を押し開けると、こちらに気付いたのか音が止む。そしてグレンは、その小さな訪問者の姿を、鮮明に記憶することとなった。
そこにいたのは、一人の男の子だった。まだ十歳にもなるかならないかの小さな体に、彼は何か大きなものを背負っていて、グレンはそれが大人の女性であること、また、その女性がもう生きてはいないことをすぐに理解した。彼女の肌は、日の出前の空気の中で見るにしろ青白く、少年の泣き腫らした両目は、その呼吸が止まっていることを分かって、それでも歩いてきたためだろうと。
何より、その男の子の風貌が、グレンに直感とも言うべきものを与えた。彼の髪は、毛先にほんの少し金の混ざった白色、瞳は明るい琥珀色で、それは多くの人間と出会い、様々な話を聞いてきたグレンでさえも、初めて知った色だった。
この子は何か、特別なものを持っている。理由の無い強い確信と共にグレンを襲ったのは、同じくらい強い危機感だった。彼の瞳がはらんでいる、燃え猛る憎悪と怒りの炎。このままでは、彼はいつか、その感情に命を捧げてしまう。その時グレンは既に、この少年を孤児院に迎え入れ、正しい力を身につけさせようと決意していた。
この国の孤児院は、子供たちに食事や衣服を与えるだけでなく、日課として身体を強化するための鍛錬や剣術の稽古、文字の読み書きの練習なども行わせている。何故なら、ここは領主が所有する戦力――騎士団への入団を目的として、子供たちを育成する施設だからだ。
まだ孤児院というものが出来る前、身寄りを失った子供は、同じ村や町に住む人間が引き取り、世話をするのが当たり前だった。だが三百年前、民の生活を根こそぎ破壊するほどの戦争が起きると、人々は自分の命を長らえることで精一杯になった。
多くの孤児は誰にも救われずに命を落とし、運良く生き延びたとしても、ならず者に拾われるか、彼らと似たような生業につくかのどちらかだった。当然、民も支配者たちも、それを良しとはしなかった。
そこで、ある領主が、孤児を育てるための新たな施設を考案した。その施設では子供たちを日々養うと同時に、騎士になることを前提として、必要な技術や知識を教えるのである。これが孤児院の始まりとなり、国内が戦争の被害から立ち直るにつれ、他の領でも同様の施設が作られていった。
現在は他国との戦争も起きていなければ、国内の治安もおおむね安定しているので、孤児たちは戦前のように、同じ村や町の住民に引き取られることも多くなった。赤屋根孤児院が属するヴェルク領においても、現在運営しているのは、ここを含め二か所のみである。
今、赤屋根孤児院で生活する五人の子供たちのうち、二人の男の子が騎士を目指し、日々の修練に励んでいる。その指導をしなければならないため、孤児院の長は騎士として務めた経験のある者から選ばれることになっていて、グレンも例には外れない。
ただし、実技の指導については――当人のやる気に反して――彼ほどの年齢になると難しいため、ふた月に一度、現役の騎士が訪ねてきて子供たちの相手をすることになっていた。
「たあああああああっ!!」
赤毛の男の子、アーロが、木剣を振りかぶりつつ突進する。だが、木槍の柄はそれを難なく受け止めて、持ち主の方に押し返した。
「――ここまでは前回と同じだ。どうする?」
アーロはしばし鍔迫り合いをすると、きらりと目を光らせた。次の瞬間、彼は力負けして弾き飛ばされたように見えたが、後退する足取りはしっかりと土を掴む。
再び同じ突進を繰り出したと見えたが、剣は片手に持ち替えられていた。浅い踏み込みで斬りかかると、片足を軸に身を返して二撃、更に突きの三撃と繋げる。しかし全ていなされ、木槍の一撃が背中を打つと、体勢を崩しかけていたアーロはそのまま倒れてしまった。
「カイ!次は君だ」
それを離れて観察していた茶髪の男の子、カイはおずおずと剣を構え、自信無さげに進み出る。深呼吸をして、唇を引き結んだまま駆け出すと、アーロがしたのと同じ連撃を放った。それから、彼と同じように背中を狙われるが、空いた手の方に体を傾け、地を転がって距離を取る。そこから立ち上がろうとするが一足遅く、鼻先に木の穂先が突きつけられた。
「……よし、前半はここまでだ。整列」
騎士がそう言うと、二人の男の子は体についた草を払い、剣を鞘にしまって、その前に並んだ。
「前回教えた時と比べて、二人ともかなり形になった。まずはアーロだが」
アーロは孤児院の中でも一等のやんちゃ坊主で、暇さえあれば剣を振り、最強の騎士になると豪語している。職員たちの仕事の八割は彼の世話と言っても過言ではないのだが、そんな彼がこうして指導を受けると時は、指の先までぴっちり伸ばして話を聞くのだった。
「気迫は十分だが、一撃が甘い。特に足の運びだ。これに気をつければ、君の力をもっと発揮できるようになる」
もう一人、カイは心が優しく喧嘩が苦手なため、たまにアーロにいじめられたりもしている。見た目通りのおとなしい性格だが、騎士になりたいという思いはアーロと同じくらい強く、鍛錬では一度たりとも弱音を吐いたことがない。
「カイの判断は良かった。どうしても逃げ場が無い状況では、ああして地面に手をつくことも必要だ」
だが、と挟んで、騎士は続ける。
「今は、それを『どうしても』の時だけにすべきだ。分かっただろうが、地面に体をつければ両の手足が塞がる。これを使ったら、体勢を戻すことを何より優先しなくてはいけない。次のことを考えていると後れを取る」
庭の切り株に腰掛けて様子を見ていたグレンは、子供たちの微笑ましい姿と同時に、騎士の成長を穏やかに噛み締めていた。
続きは昼食を取ってから、という騎士の言葉に、二人は大きな声で返事をし、競って孤児院の中に戻っていく。それからこちらに向かって歩いてきた騎士に、グレンは口角を上げながら声をかけた。
「なかなか、板についてきたじゃないか。シナン」
シナンと呼ばれた彼――白い髪と琥珀の瞳を持つ騎士は、照れくさそうにかぶりを振って、槍を地に突き立てた。
「まさか。ずっと苦手ですよ、教えるのは」
「言うわい。お前さんが相手をするようになってから、坊主たちの顔つきが違う」
十五年前、女性の亡骸を背負ってこの孤児院に訪れた、一人の子供。グレンはユク村の人々から協力を得て、まず、彼の母親だったという女性の葬儀を執り行った。その子供に遺されたのは、両親の形見であるという指輪と、シナンという名前だけだった。
母からセルヴァニアの剣技を教えられていたというシナンは、生来の素養もあって、同い年の子供たちの中では群を抜いた実力を持っていた。その力は、こうして騎士になってからも成長し、今やヴェルク以外の領民にも「白狼騎」という異名で知られているほどだ。抱えていた強い憎しみの感情も、十五年の成長を経て鳴りを潜めていた。
「まあ、あまり張り切りすぎるでないぞ。娘らも今日は早く帰ってくるでな」
そんな騎士としての器量と、もの珍しい外見からか、シナンは孤児院の子供たちにも非常に人気がある。特に三人の女の子たちは食事の間中、決まって彼を質問攻めにするのだ。
「若いご婦人と会食なんて、城に戻って自慢できますよ。毎日男だらけの食卓で――」
「シナン、食べないのかい?」
孤児院の中から、男性の職員が顔を出した。名をユウィンと言って、シナンが小さかった頃、率先して面倒を見ていた兄のような存在である。
「ああ、すまない。今行くよ」
「君と喋りながらじゃないと、あの子たち早食い競争をするから」
頬を掻き苦笑するユウィンは、続いてグレンに話しかけた。
「院長、あの子ですが……お昼を食べて、また眠ったみたいです」
「おお、そうか」
「あの子?」
そして次はグレンが、シナンとユウィンとを見比べて、はっとした顔をした。
「そうじゃ、そうじゃった。まったく、物忘れがひどくてかなわん」
切り株から立ち上がると、改まってシナンに向き直る。
「お前さん……騎士団に、折り入って頼みがあってな」
グレンは昨日の夕べからのことを、順を追ってシナンに話した。名も分からない少年が、一人で孤児院の前に倒れていたこと、何かに怯えている様子であること。しかし、肝心なその「何か」については、今のところ話してくれそうにないことも。
「一人で、ですか?一体どこから……」
「ああ、それについては、少し聞き出せたんじゃが」
朝食を食べている間、グレンはなるべく少年を刺激しないよう気をつけながら、どこから、どうやってこの孤児院に来たのかを訊ねた。すると少年は、数日前まで隣国ラドアルタにいた、ということを明かしてくれたものの、どうやって来たのかは憶えていないと言うのである。