『この子を、助けてくれないか』

――虹色の光が音も無く弾けた。
その瞬間、夢から覚めたように、全ての感覚が戻ってくる。けれど、つい今まで目の前で震えていた、あの子の姿はどこにもない。光は次第に細かな粒になって、か弱い瞬きを繰り返しながら、触れようとする間もなく消えていった。
視線を落とした先、力無く開いたままの掌は、呆然として何も語らない。失われた光は、この棄てられた山小屋の中に、より深い闇をもたらしたように思えた。ただ、その闇の中に、手元だけがかすかに明るく、吸い寄せられるように顔を上げた。剥がれ落ちた屋根の隙間から、青ざめていく夕刻の空が覗いている。
するとその小さな天蓋を、一筋の閃きが、矢のような鋭さで横切っていくのが見えた。
心がざわつき、足が竦む。その白銀の軌跡は、何かの始まりを告げる兆しだと思った。
そして、それを避けることはもう出来ないのだと。

一瞬の儚い輝きに、「私」はひどく怯えていた。


−T 銀星の降る−



その日は雲一つない快晴であったことに少年が気付いたのは、急いた呼吸を整えるために、走り続けてきた足を止めた時だった。
振り返り、村の家々がようやく見えなくなったのを確かめて、大きく息をつく。仰いだ空は混じりけのない青に満たされて、その深さが地平を離れるほどに増していくのがはっきりと分かった。だが突如として、その深さが巨大な虚ろに変わって、少年はその中に突き落とされたような気持ちになる。
静かに波立つ草原には、人はおろか、鳥や獣の気配すらない。ここには何も無いし、誰もいないのではないだろうか。辿り着くべき場所など、どこにも無いのではないだろうか。むしろ、この風景はまやかしで、自分はとっくに死んでいるのではないだろうか――それは孤独という言葉の中に収めるには膨れ上がりすぎた、途方のない感情だった。
このまま、あの村にいてもいいじゃないか。いつかは知っている人間が、自分を探して訪れるだろう。一人旅など無謀すぎる。途中で何かあったら、元も子もないじゃないか。
必死に縋り付くもう一人の自分を振り払うため、少年は心中で呟いた。
分かっている。
でも、時間が無いんだ。
春風にさらされる銀髪に、黒い外套を深く被り直すと、彼は短く息を吸って、再び走り出した。その足取りは、傾きつつある太陽を懸命に追いかけるようであり、何かから逃げるようでもある。
セルヴァニア王国は南東の辺境、ユクという農村に少年が滞在していたのは、実に一日足らずの僅かな間のことだった。


事の始まりはその前日、西の地平に残っていた日の光もすっかり消えて、星がまばらに灯り始めた頃に遡る。
ユクは山地のふもとに開かれた豊かな農村で、木造の小さな家々が村の道や農地に沿って並んでいるのだが、その外れに一軒だけ、趣の違う建物が佇んでいる。数本の木々に囲まれたその建物は石煉瓦の外壁を持ち、二階分の高さがある四角い塔のようで、一階の部分だけが南に長く張り出して、そこを赤色の屋根が飾っている。両開きの扉には鉄の板があてがわれ、ややいかめしい表情に見えるものの、外壁を覆う苔や蔦が、年月を経た風合いによって険しさを和らげていた。
ここは孤児院という施設で、身寄りのなくなった子供たちが引き取られ、養われている。その外観からユクの村人たちには「赤屋根孤児院」という愛称で呼ばれて親しまれているのだが、ここに昨日の夕べ、一人の少年が保護されたのである。
その少年を発見したのは、外の見回りに出た男性職員であった。彼は建物を出てすぐ、玄関から目と鼻の先に、黒い外套を羽織った少年が倒れているのを見つけた。慌てて中に戻った彼は孤児院の院長・グレンに相談し、急遽、空いている寝室の一つを少年に使うことにした。
少年を部屋に運んだ二人の職員とグレンは、まず彼の身に着けている衣服が上等なものであることと、同じようにしっかりとした作りの靴が、泥と草にまみれていたことに驚いた。そして、靴と靴下を脱がせてみると、その足は所々を擦り剥き、皮もめくれていた。ケガの手当が得意な女性の職員は、すぐにきれいな布で足を拭いてやって、薬草を漬け込んだ水で消毒をした。大人でも涙を堪えるほどの効き目がある薬なので、起こしてしまわないかという心配をよそに、少年は身じろぎ一つしないままで処置を終えた。
二人の職員は、自分たちが少年の様子を見る、と言った。しかしグレンは、二人よりも眠りが浅く、また腰の曲がった老人の方が警戒を抱かせないだろうとして、彼らを休ませた。こんなにぼろぼろになるまで足を動かさねばならなかった、そんな状況に置かれていたのなら、少年はきっと強い恐怖を抱いたまま、気を失っただろうと思ったからだ。
グレンはまだ暗いうちにも何度か目を覚ましたが、少年がようやく瞼を開けたのは、太陽がそろそろ山の稜線を越えようかという頃だった。
「おや、気が付いたかい」
その目元が僅かに動き、慎重そうに様子を窺っているのが分かると、グレンは努めて穏やかな声をかけた。少年はそれでも、びくりとしてグレンの方を見たが、杖をついた老人が声の主だと分かると、緊張の色はやや和らいだようだった。
「……ここは……?」
実はそうして少年が喋るまで、グレンも職員たちも、彼が少年なのか少女なのかの確信が持てずにいた。歳は十四、五ほどに見え、そのくらいの歳の子供は既に一人前に親の仕事を手伝って、肌が灼けていたり、大小の傷があったりするものである。だが彼の肌はケガの痕どころか、日の光に当たったこともないのではないかと思うほど白く、それが小ぶりに整った目鼻や口元、銀色の髪とも相まって、少女のような顔立ちを作り出していた。
「ここは赤屋根孤児院じゃ。儂が院長をしておる、グレンと言う」
一瞬、あどけないぼんやりとした顔を見せていた少年だが、その言葉に蒼紫の瞳が、焦るように揺らいだ。グレンがあえて何も言わずにいると、彼はどこかおどおどとして、次の質問をした。
「……セルヴァニアの孤児院、ですよね」
「ああ」
「何か、ご迷惑をかけませんでしたか」
妙だな、と思いつつも、グレンは軽い笑いでそれに答えた。まだ幼さも残る少年の台詞にしては、大人びているような、背伸びをしているような、そんな風に聞こえたからだ。
「なあに、うちで見るにはちょいと大きいが、目の前に倒れておれば助けるて」
それに対し少年は、はっとした表情になって、顔を背けた。何事かと思っていると、ひと呼吸おいて、彼は振り絞るような声を出す。
「……助けていただいたのに……ごめんなさい」
グレンは少年の口調の丁寧さに感心もしたが、それよりも、彼がひどく動揺しているらしいことが気がかりになった。その手は掛け布をきつく握り締めていて、色々な子供を見てきたグレンも、次にかけるべき言葉に迷った。
当たり障りのない会話をして、少年の気を幾らか紛らわすことは出来るだろう。だが、それではこの少年の信頼を得ることはできない。彼は明らかに助けが必要なのに、それを人に話せない事情があるのだ、とグレンは推測した。だから、遠回しな質問を考えて、安全を確認することで頭がいっぱいになっているのだと。
その時、既に開いている部屋の扉を、コンコンと叩く音がした。
「あら、お話し中でしたか」
女性の職員、マーサは、器と杯の乗った盆を持って立っていた。器からは素朴な香りの湯気が漂っていて、グレンは自分が空腹なことと、朝食がまだだったことを思い出した。
「いや、構わんよ。この子の分も持ってきてくれたのかい?」
「ええ、もちろん」
マーサはグレンに盆を預けると、寝台を覗き込んで言った。
「起きられる?喉が渇いたでしょう。」
それから、少年がうまく力を入れられないと見ると、背中を支えて彼を手伝った。ゆっくり飲んでね、と水の入った杯を渡すと、少年は一口ずつそれを飲む。
グレンの方は水をすぐに飲み干して、器に入った朝食に手をつけていた。食べやすいよう刻んだ野菜を煮込んだスープに、練った穀物の粉を固めたものであるクラットが半分浸かっている。ふやけた半分をかじり、もう半分はまたスープに漬けておきながら、汁と一緒に野菜をすする。
ようやく水を空にした少年も器を受け取り、グレンと同じ順序で食べ進める。食欲はあるらしいことに二人が安心したのも束の間、突然、少年の白い頬を伝うものがあった。
二人以上に本人が驚いたようで、器の中に滴がこぼれ落ちそうになってようやく、慌てて袖で頬を拭った。しかし堰を切ったように流れる涙を、もはや止めることもできないようで、少年は顔を伏せて泣きじゃくり始めた。
「……あらあら!」
マーサは背中を撫でてやりながら、彼を落ち着かせようとする。
「かわいそうに、そんなに辛い思いを……体が温まって、気が緩んだんだわ」
その傍らでグレンは、この少年に自分がしてやれることを、一つ思いついていた。
本人が受け入れてくれるかは分からないし、それがどれほど彼の助けになるのかも不明だ。だが、グレンは少年が現れた時から薄々と感じていた奇妙な縁を、形あるものにすべきだと思った。
少年の感情がやや鎮まったとみると、グレンはマーサに訊ねる。
「……そういえば、子供たちは元気に出て行ったかね」
「ええ、ご飯が済んだら一目散に。今日も忙しくなりそうですよ」
呆れの混ざった口調のマーサがどこか他人事なのは、忙しくなるのが主に自分ではないからだろう。
グレンの感じている奇妙な縁、それは今日が孤児院の子供たちにとって、特別な日であることだった。