エンドル城敷地内の一角、人目につくことも無い日陰に掘った小さな穴に、エイリーンは薬の小瓶を埋めた。ヴェズリーが自室に置いていったものだ。
シレニアは水を差しだして、主の土に汚れた手をすすいだ。
今朝、ルドルフたちの傭兵団は、二食と寝床の礼をして城を出発していった。ジェードもエイリーンもむしろ、自分たちが礼をし足りないくらいだった。彼らが通りかかっていなければ、エンドルを救える者は誰もいなかったのだ。
彼女がせめてもと彼らに渡したのは、調合室を整理したついでに作った傷薬、そして銀髪の少年への、心からの感謝だった。あなたが、私と父の心を動かしてくれた、と。少年は照れくさそうな、しかし誇らしげな顔をしていた。最初は気弱そうだと思ったが、人は見かけによらないものだ。
「それにしても……」
エイリーンは昨日と変わり、やや雲が多い空を眺めて呟いた。
「彼らはどうして、傭兵団だなんて名乗っていたのかしら」
同じように空を見つめていたシレニアはエイリーンの横顔を一瞥し、視線を空に戻しきらないうちにまたエイリーンを見た。
「気付いていたのですか?」
シレニアは元々、傭兵として単身、セルヴァニアの国内を渡り歩いていた身である。だからルドルフたちを見たとき、何だか旅慣れていなさそうだ、という感想を持った。エイリーンは信用していたようだったし、彼らが悪人であるとも思わなかったので、追及しなかったのだが。
「ええ、そうよ。あの方々はヴェルクの騎士だわ」
「隣領の……では、お知り合いだったのでは?」
「いえ、一回お会いしたことがあるかどうかよ。でも、あの白髪の方……殆ど外套を被っていたけど、彼をこの辺りで知らない人はいないわ」
「何か、事情があると考えられたのですね」
エイリーンは頷き、ふいに強まった風に髪を押さえた。
「心配だわ。何か、大変なことでなければよいのだけど」


−X 岐路−



ヴェルク北部に位置する中継拠点、ウルス砦の外観を他の拠点のそれと比べると、佇まいの差に驚くだろう。
この砦の窓辺には常に、季節の草花が植えられていて、城内は色も模様も様々の垂れ幕と敷物で飾り付けてある。全て、この砦を守る騎士たちの手作りだ。
「ずいぶんお久しぶりじゃないかしら?」
緩やかな手つきで鮮やかな紅色をした茶を淹れるのは、柔らかな空気を纏う女性である。この砦を守る第五隊――弓騎士隊以外の全女性騎士を束ねる部隊長、マロニエだ。
その向かいに座るのは、長い濃茶の髪をした女性。軽い防具こそつけてはいるが、やはり騎士団の拠点には似つかわしくない、しとやかな風貌である。
「ええ、お城の方は度々、訪ねていたのだけれど……こちらには顔を出していなかったから」
彼女の名はソニア。ヴェルクの北に接する領地、カインデルの領主の娘である。
セルヴァニア王国が建国される以前、草原の中央から外れた地域では、早期に小さな勢力が淘汰された。そこで台頭したのがヴェルクやカインデルの前身であり、安定した支配基盤を確立していた彼らは、互いに友好を結び、草原内では比較的平和な統治を行なっていた。
それが仇となってギムドの侵攻を許したのでもあるが、片やこの二つの領は今も尚続く、セルヴァニアの歴史よりも長い同盟関係を手に入れている。領主が代替わりしてもその信頼が変質することは無く、有事の際の援助や互いの領の騎士を招いて訓練を実施するなど、多面的に協力してセルヴァニアの辺境を守っている。
領主本人が他領に赴くことは――ヴェルクにおいては特にそうだが――さほど頻繁にあることではなく、別の領の状況を見に行くのは、概ねその家族や騎士の仕事である。ソニアは今日、その役目のためにヴェルクにやって来て、無事その務めを果たしはしたのだが、どこか浮かない顔をしていた。
「まさか、長旅に出ているだなんて思わなかったわ」
そう言って唇を尖らせるソニアの面持ちは一変して、少女めいた幼いものに見える。マロニエは自然に微笑みを零すと、茶を淹れた杯をソニアにすすめた。
十二年ほど前、孤児院からヴェルク領主の養子として城に招かれたシナンは、その後一年の時間をかけてロランに認められた。その際、最初に彼を紹介されたのが、ソニアを含むカインデル領主一家であった。
両親の後ろに隠れて様子を窺っていたソニアは、シナンが騎士になる予定だと聞くと、影から飛び出して、今からお稽古に付き合って、と言い放った。
とても年端もいかぬ少女が初対面の相手に言うことではないが、何せ彼女は当時の環境が不満で仕方なかったのである。彼女は両親にならって騎士団への入団を希望していたが、父親はそれに反対し続けていたし、また主の気持ちを知っていた騎士たちも、彼女と本気の手合わせをしたはずがなかった。シナンとの初めての手合わせの結果は五戦五敗で、これで諦めがつくかという父の期待を裏切って、次こそ勝ってみせますわ、と彼女は宣言した。以来、ソニアはシナンを兄と慕っていて、年に数回どころか一節に二度という間隔でヴェルクを訪れているのだった。

「間が悪かったね、ソニア。何せ急用だったものだから」
ヴェルク城の客間でソニアと対面したロランは、シナンの不在を伝えて申し訳なさそうに苦笑いした。
「いいえ、そんなこともありますわ。ロラン様の元気なお姿を見られただけでも安心ですもの」
彼に付き添ってきた侍従が部屋を出ると、ロランは座っている椅子に杖を立てかけ、ソニアに向き合った。
「ウィリアムは元気かね?」
「ええ。相変わらずですわ。残念なことに」
悪びれもせずそう言ってみせるソニアは、年相応の落ち着きを身に着けても、シナンに挨拶代わりの勝負を挑んだあの少女に違いない。
セルヴァニアの領主たちは、国のそもそもの成り立ちから、騎士団の団長を兼任していることが殆どだ。ロランのように病弱のためとか、やむを得ない理由でそうしていない領の方が稀である。カインデルは前者であり、領主ウィリアムは妻のエダを副団長とし、かれこれ二十年近くも騎士団を牽引している。昔から厳格で公正を好む武人であったウィリアムだが、昨今もその面影が薄らぐ様子は無く、それどころかますます口うるさくなっている、というのがソニアの談である。自分の騎士団の人間を見るにつけても、戦いの場に身を置いている人間というのは、歳を取るのが遅いのでは無いかとロランは思っている。
「ああ、でも……」
ソニアは何か思い出したようだったが、使う言葉に迷ってか目を泳がせた。それから気持ちだけ声を潜めると、彼女らしくない不安げな顔をする。
「……最近、少し様子がおかしいんですの」
「ほう?」
「騎士たちは何も感じていないようなのですけど……気のせいとは思えなくて」
「喧嘩でもしたのかね」
訊いてはみたものの、ロランはカインデル領主夫妻が昔から仲良くやっていることも、それが気の強いエダを上手く立てるウィリアムの性格によるものだとも知っていた。ソニアもロランの質問については、首を横に振った。
「そんなことはありませんわ。ただ、どこか余裕がないというか……何かを焦っているように見えて」
彼女がそれに気付いたのはつい数日前――カインデルの城からヴェルクまでは二日と半日ほどかかるので、ほぼ出発の直前になる。父のウィリアムは元々、にこやかにしていることの方が少ない性質なのだが、それに輪をかけて険しい顔をしていたのだ。彼や母が同じような面立ちをしていたのは、ヴェルクを大嵐が襲った時とか、自領の採石場で最も大きな事故が起きた時くらいだった。そのような事件があったとはソニアの耳に入っていなかったので、余計に印象が強かったのだという。