若草色が匂う生地で作られたその衣服は、腰から下が緩やかに膨らみ、植物の蔓や花を模した裁縫が端々に散りばめられている。細い腕を覆っている、白い薄手の手袋も、触れるまでも無く滑らかな質感が分かるものだ――その全ての指先に、茶色や緑の染みがついているのが気にはなったが。
それらは全て、一介の農民が着るようなものではない。シナンは既に、彼女の素性について確信を持っていたが、相手が打ち明けるまでは黙っていることにしていた。
「あ、あれですか?」
カムリが行く手に並んでいる何かを見つけて指をさす。それは一行の進む道を挟むようにして、ずらりと並び広がっている木の柵だった。近付いていくにつれ、そよぐ風が仄かな香気を帯びていく。
「……わあ……!」
その前までやってきた時、ジュノは歓声を上げ、他の四人も息を呑んだ。規則正しく立てられた柵が守っていたのは、見渡す限りの花畑だったのだ。民家が六軒は入りそうな区画ごとに、青々とした草や、白、青、黄と色の異なる小さな花が、地面を埋め尽くして咲き誇っている。
それらが立ち上らせる甘く爽やかな匂いは、呼吸を自然と深くさせた。アルクェイドもその香りを胸いっぱいに吸い込むと、心の中に巣食う黒い靄が、少し晴れるような気がした。
元々、エンドル領は豊かな森林や、少し湿った低地が多く、豊富な種類の植物が自生している土地である。
セルヴァニアの人々、殊に野外での仕事を主としている農民や狩人は、程度の軽いケガや病気なら、自分で薬草を探して手当てをすることが出来る。それでは対処できない重いものに関してのみ、より専門的な知識を持ち、複雑な調合を行える薬師に治療を頼むのだ。この薬師は通常、一つの町村に一人いるかいないか、といった割合である。
だがエンドルにはその土地柄、他領より薬草に詳しい者が多く、薬師と呼べる知識を持つ人間が村の半分以上を占めている所もあるという。そのためにエンドルでは、薬は日用品であるだけでなく「商品」でもあり、エンドルの民は他領で薬を売り、食料を買って帰ってくるのだ。農地も食用の穀物より、薬草の畑として使われるものが多いと言われている。
また、エンドルの薬は効き目が高く、種類によっては生産が安定していて価格も低い。自分で薬草を調合する習慣のない都の人間にとっては、わざわざ薬草を探してきたり、薬師に頼んだりするよりよほど経済的なので、王都でそれを扱う商人がいれば、人が殺到してたちどころに完売してしまうらしい。ある貴族などは定期的にお抱えの商人を使わして、エンドルの薬を買い占めていくという話もある。エンドルが草花の領と呼ばれ、紋章も花を象っている所以である。
花畑を越えた先にあったのは、一目見ただけでは何の変哲も無い農村であった。しかし方々の家には横向きに付いた煙突が湯気を吐き出していて、恐らくそれが発しているのだろう、花や葉を凝縮したような香りが漂っている。
「……おや?エイリーン様じゃありませんか!」
驚いた様子で話しかけてきたのは、入り口のすぐ隣に建つ家の前に座っていた老婆である。彼女が膝に置いている籠には小さな白い花をつけた草が大量に入っていて、彼女はそこから花をむしる作業をしていたようだった。
「どうしてこんな所に?」
「ああ、いえ……少し、用事があって。どこか、こちらの方々が休めるお家は無いかしら?」
「お安いご用ですよ。どうぞ、うちを使ってくださいな」
その背後にある家は、農民の家にしては大きな二階建てで、造ってから随分と年数が経っているようである。襲われたり、災害で壊れたりしたことがないのだろう。
老婆は籠を脇に置いて立ち上がり、馬を近くの柵か柱にでも繋いでおくよう言うと、シナンたちを家の中に招き入れる。顔には深い無数の皺が刻まれ、背中も曲がっているが、言葉も歩き方も、若者と大差ないほど矍鑠としている。何だかグレンみたいだ、とシナンは思った。
窓の少ないその家――小さな屋敷、と言った方がしっくり来るかもしれない――は、ちょうど日差しが強くなってくるこの時間帯にも薄暗く、所によっては足下もおぼつかない。老婆が先導する通りに、シナンたちは一列になって歩き、やがて古びた木の円卓がある、客間らしい部屋に通された。
椅子が一つ足りず、カムリがジュノに席を譲った。老婆が部屋を出て、一息吐くと、まずは少女が頭を下げる。
「改めて……本当に、ありがとうございました」
「俺からも、ありがとうございます」
続いて、青年も礼を述べる。二人はそれから互いに視線を交わしたが、少女の方が意を決したらしく、頷いて話を続けた。
「皆様は……傭兵の方、なのですか?」
「ええ。ちょうど任務で、ここを通ったところだったんです」
やり取りをするのは、団長ということになっているルドルフである。少女は、そうなのですね、と、かすかに残念そうな声を滲ませた。
「皆様に、お願いしたいことがあったのですが」
「……もしよろしければ、お話だけ聞かせていただいても?」
すかさず、シナンが訊ねる。彼女の頼みが何であれ、まずは先程の諍いが何だったのかだけでも知る必要があった。
「ええ、もちろんです。……きっと全て話さなければ、引き受けてもいただけないでしょうから」
すると、少女は服の下に隠していた首飾りを取り出す。限られた光の中にも、きらきらと小さく輝いてみせる若草色の宝石は、花と草を意匠としたエンドル領の紋章を象っていた。
「申し遅れましたが、私はエイリーン=ディクトル。エンドル領主ジェード=ディクトルの娘です」
驚いた顔をしたのは、カムリとジュノだけだった。セストやルドルフ、アルクェイドは、その身なりから大体の予想がついていたし、シナンも記憶の中にある、彼女が幼かった時の風貌がそのまま残っていたので、間違いないと思っていたのだ。
「こちらは――」
「トライスと言います。……王都騎士団、でした」
「トライス様は、砦に軟禁されていた私を、助けてくださったのです」
様付けされたことにだろうか、トライスが何かもの申そうとしたが、そんな空気では無いと感じたのか口を噤む。
「軟禁……?そりゃまた、物騒な」
「それに砦と言っても、エンドル騎士団の拠点のはずでは?」
ルドルフとシナンが、それぞれに疑問を口にする。エイリーンは苦しげに目を伏せると、二人のその問いに、まとめて答えてみせた。
「……エンドル領は今、王都騎士団に支配されています」
「支配だって?」
ルドルフが思わず大きな声を上げると、エイリーンはちらりと、部屋の入り口を見やった。どうやら、民にはそのことは知らされていないようである。ルドルフは、失礼、と小さく謝った。
アルクェイドの背筋には、冷たいものが走る。いくら王都騎士団とはいえ、他領を乗っ取ることが出来る権限など持ち合わせていないはずだ。それが可能になっているということは、特例の存在――彼らの主君、王の命令があったという事実に他ならない。そして、彼の事情を知っているシナンとセストにも、他の者とは違う緊張が走る。
平穏を愛し、本人も温厚な性格であることから、「安穏王」の二つ名で呼ばれる国王アルバート。そんな彼が他領の支配を命じているだけでなく、領主の娘を人質に取ること、裏切り者に対しては容赦ない制裁を加えることをも、許しているというのだろうか。
シナンは、アルクェイドがまだ明かしていない情報の存在を、薄々と感じ始めていた。
「ですから、私のお話を信じていただけたなら――どうかこの領を、救っていただけないでしょうか」
紋章と同じ色をしたエイリーンの瞳は、幼い頃には無かった、深い憂いを湛えて揺れている。
「首尾はどうだ、マルシェ」
ヴェルクとエンドルの領境――ロブレン盗賊団の根城からやや西に移動した地点では、二人の人物が待ち合わせていた。
ここにあるのは、建築物の土台らしい、朽ちた組石の壁だけだ。黒霧戦争より昔に建てられたものの一部らしいが、詳細な記録を語るものがないことは、付近に村や他の遺跡の一つもないことから明らかだった。
「今のところ不審な動きは無かったわ。レベリオって奴はまだ警戒してるみたいだけど」
一人は少女であり、束ねた茶色の髪を風に晒しながら答える。問いを投げかけたのは、黒い外套に身を包んだ男――昨日、ロブレン盗賊団に接触した人物だ。
「で、いつまで監視するの?危なそうだったら?」
「……こちらから手は出すな。お前は王子の結末を見届けて、それを報告してくれれば良い」
少女もまた、控えめで細い体躯を黒い外套に包んでいる。それを一枚めくれば、脚、胴、背中側にもびっしりと、帯に差し込まれた短剣や暗器が覗く。
「しかし、回りくどいことするわねえ。邪魔者を消したいなら誰かに一暴れさせればいいのにね。モルディン将軍みたいに」
無邪気に笑う少女に、男は微笑みを返すが、相変わらず口元だけしか判別出来ないため、本当にそれが「笑い」なのかは分からない。
「そうは行かないさ。これはラドアルタの出方を窺うためでもある」
「……まったく。ほんとに騎士って奴らは戦うことしか頭にないのね」
装備の確認を終えた少女が立ち上がると、三歩ほど駆けた後、思い出したようにくるりと振り返った。
「じゃあね、ロビン!精霊のご加護を!」
「ああ、お前もな」
黒く流れる煙へと変わった彼女の姿は、みるみると丈の長い草原の中に沈み、やがて幻のように消え去ってしまう。
彼女も随分と成長したから、誰にも知られずに事の顛末を見届けるくらいは任せて良いだろう。それに、いつまでも続けられる仕事ではない。今は彼女が望むように仕事を与えるが、もしも嫌気が差したなら、元の道に戻るように諭そうと男は思っている。
彼女にはまだ、自分の道があるのだから。
らしくもなく感傷に浸っている自分に気付き、男もまたその場を後にする。次に彼女と会うまでの間に、こちらも幾つかの仕事をこなしておかねばならない。
全てはこのセルヴァニアの、末永い繁栄のためだ。
(「草花の領エンドル」 了)
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