「あなた!聞いて、この間のお薬、王都に持っていったら売り切れたんですって!」
ある日ロゼットは、自分の部屋に入ってくるなり、花のように輝く笑顔でそう言った。
「また仕入れに来ると言っていたし、これはとっても大きな成功だわ。王都の人たちがみんな、エンドルの薬の素晴らしさを知ってくれた証明ですもの!」
「ああ、そうだな」
「民の暮らしも、今よりもっともっと良く出来るわ。これも皆が誇りを持って、薬を作ってくれるおかげ――」
喜びを全身から溢れさせ語っていた彼女だったが、そこで突然、大きく咳き込んだ。慌てて背中を叩いてやると、心配ない、という風に、また笑ってみせる。
「……ごめんなさい、なんだか最近、こんな調子で」
「気持ちは嬉しいが、無理はするなよ。お前に何かあったら……」
「エイリーンなら大丈夫よ」
今ここにはいない娘の名を出して自分の言葉を遮り、彼女は自慢げに胸を張った。
「あの子、とっても覚えが早いんですもの。いい薬師になるわ。誰に似たのかしらね」
思わせぶりな、背伸びした少女の面影を残す口調と表情。それが、記憶に残る妻の、一番元気な姿だったかも知れない。
ロゼットという女性はいつも穏やかで、怒るということがなく、民のひとりひとりさえ思いやる心の持ち主であった。かと思えば、妙に頑固で勝ち気なところがあって、体調を気遣ったりするとそれとなく嫌がるのだ。そんなことより、あなたもたまには訓練に参加されたら、と。
それは彼女が、病床に伏せて迎えた最期の日まで、変わることはなかった。
「ジェード様」
勲章に刻まれた自領の証を見つめていた彼は、扉を叩く音と、自分を呼ぶ声で我に返る。返事をすると、まだ見慣れない甲冑を身に着けた騎士が入ってきて一礼し、真っ直ぐに机の前までやって来た。
「お手紙です。エイリーン様から」
小さく折り畳まれた端切れのような紙を受け取り、じっと眺める。中に書いてあることなど、見なくても分かってはいるのだが。
「……ありがとう」
用件を済ませた騎士はまた礼をして、静かに部屋を出て行く。彼は手紙を開きもせず机の上に置き、塞ぎ込んだ面持ちを更に翳らせた。
娘の言うことも分かる。一刻も早く、こんなことはやめろと言うのだろう。彼女はロゼットによく似て、嫌なことは梃子でもやらない性格なのだ。
だが、ひとたび世界が混沌に陥れば、意志の強さや感傷だけで、大切なものを守れはしない。
最悪の事態を避けるためには、何かを犠牲にせねばならないこともある。今がまさにその時なのだ。もし、あの男の言ったことが実現してしまえば、自分にはもう、このエンドルを治めていくことが出来なくなる。
妻の愛したものを失うこと、それは彼にとって、死をも上回る恐怖となっていた。

たとえ魂と引き換えようとも、この領地を戦いの炎に――あのおぞましい魔法の炎に曝してなるものか。


−U 草花の領エンドル−



シナンたちがヴェルク城を出発して、一日が経った。
城は昨日も今日も、いつもと何ら変わりの無い朝を迎えている。食堂は混雑する時間帯で、寝坊して駆け込んでくる者、食事をかき込んで席を立つ者とで、慌ただしく人が入れ替わっていた。
「……。」
そんな中、一人だけ食事を進めるでもなく、時間に取り残されたように座っている者がいる。栗色の髪をした青年の、いつもの爽やかな面影は消え、無表情に虚空を見つめるその姿はさながら亡霊であった。
「レイチェル……、気持ちは分かるが、元気を出しなよ」
その向かいに座っているのは、シナンに代わって第二隊を束ねている副長、テオフィルである。レベリオを前にしてすら揺るがなかった柔和な雰囲気も、流石にそんな同僚の前では曇り気味だった。レイチェルはこくりと頷くが、やはり一向に手を動かす気配がない。
彼がこんな状態になってしまったのは言わずもがな、昨日起きた事件のためである。
前の日の早朝、訓練場で準備をしていたレイチェルは、他の数名の隊員と共に、弓騎士隊の隊長であるセストの元に呼ばれた。曰くこれから何日間か、セストは外出するシナンについて城を離れるので、弓騎士隊は他の部隊の訓練や模擬戦に参加することになるらしい。
彼が隊を自分たちに任せて別の仕事をしに行くのは、さほど珍しいことにも感じなかった。レイチェルは話が終わると、自分の小隊に配属されている隊員を揃えて、第二隊への挨拶に赴こうとした。そこで彼は別の小隊長に呼び止められ、ようやく異変が生じていることに気付いたのである。
妹のジュノが訓練場にいなかったのだ。
ここに来たばかりの時には、間違いなくいたはずだった。いや妹のことだ、何か忘れ物をして、寝室に戻っているのかもしれない。少し待っていればくるかもな、などと話をして、自分は第二隊のいる演習場に向かった。しかしその間にも、よからぬ考えがぐるぐると頭の中を回り、心の準備どころの話ではなかった。
大体、妹は自分とは別の小隊なので、本来なら自分が気にかけるべきことではないのだ。だからといって身内の勝手な行動を同僚に丸投げするのはいかがなものか。そんなことを考えていたレイチェルは演習場に到着する直前、はたと足を止めると、先に合流しているよう隊員たちに伝え、疾風の速さで二階の寝室へと向かった。
この時間、人が居ない寝室は全て開け放たれている。縋るような気持ちで妹の部屋を覗くが、願いも虚しく、寝室には誰もいなかった。入れ違いになっただけかもしれない、という最後の望みさえ打ち砕いたのは、寝室の入り口に設置された棚である。
全ての寝室には討伐遠征や、急襲の際に取り出せるよう、人数分の手入れされた武器が常備されている。この寝室には四人、今は誰も討伐には出ていないはずなので四対の弓と矢筒があるはずだが、一つ足りなかった。
訓練用の弓は寝台の横にでもかけてあるか、訓練場に置いてあるので、間違ってこれを持って行った訳でもないだろう。
レイチェルはその瞬間にようやく事態を察し、城門へと向かったのだが、辿り着いた時にはやはり、既に無人であった。
演習場に戻って来た彼と挨拶を交わしたテオフィルは、そのただならぬ様子から、今日の予定を確認するより先に話を聞くことにした。妹が誰に何の相談もなく、弓騎士隊長の遠征についていったらしい。帰ってきたら注意しないとな、と前向きな言葉をかけてみるが、どうやらレイチェルは妹のことが心配過ぎて、何も頭に入っていないようだった。
「……実は、うちにも行方不明が一人いてね」
そこでテオフィルは、本人としては彼に同情して元気づけるつもりで、あることを打ち明けた。それがレイチェルを更に深く突き落とす結果になるとは思いもせずに。
「うちのは多分シナンを追っかけて行ったんだよ。昨日、盗賊にぶん殴られたばかりだっていうのに……」
彼は、レイチェルとカムリが親しいことを知らなかったのである。
その前夜、ロブレン盗賊団の襲撃に遭ってケガを負ったカムリを、レイチェルも見舞っていた。カムリがシナンに寄せている尊敬の強さも、勿論知っていた。名前を出されなくても、その行方不明者がカムリであることは、レイチェルには疑いようのないことだった。
つまり妹に無視された挙げ句、自分の普段の言動を知っているカムリさえ、彼女を止めなかったということである。
親しい人物二人から裏切られた気持ちになったレイチェルは、訓練中こそ真面目にやっているように見えるが、一度仕事を離れるとこの有様で、その頼りなさは立ち枯れた雑草にも似ていた。
「……テオフィル副長」
「ん?」
「副長には、ご兄弟はいらっしゃいますか」
牛のような緩慢さで咀嚼していたクラットを飲み込み、レイチェルは呟く。
「ああ。年下のが二人いるよ。どちらも弟だ」
「そうですか。あまり妹のいる人が、近くにいなくて」
彼がようやく見せた虚無以外の表情は、不安と悔しさと、そんな自身の心への自嘲をまぜこぜにした笑みだった。
「……俺は、妹には騎士になってほしくなかったんです」
今こそ同じ境遇ではないものの、将来の自分が娘を持つことになったら、彼のように考えるだろうとテオフィルは思う。
騎士という身分になれば、衣食住は保証され、働きによっては特別な褒賞も得られる。災害に怯える必要もなく、また故郷の家や村に、何かしらの援助をすることも出来る。王都以外の土地において、民が騎士に志願する専らの理由だ。しかしそれらの待遇は、騎士の仕事が常に命の危険と隣り合わせであることで、釣り合いが取れるものなのである。
特に女性の場合――これは騎士であろうとなかろうと――ならず者に捕らわれるということがあれば、単に人質や捕虜にされる以上の辱めを受けることもある。そのため女性で騎士になることを志望する者には、男性よりも厳しい基準によって審査が行われる。彼女らは男性を基準に設けられた入団条件を満たすだけでなく、更に自分で自分の身を守り切れるということを、試験の段階で証明せねばならないのである。ヴェルク騎士団においても、女性のみで構成された部隊である第五隊が存在するが、そこへの入隊を望む者に要求される能力は、第一、第二隊のそれにも匹敵すると言われている。