もし勲章を外せば、シナンはヴェルクを継ぐ者でもなくなる。だがこの決断は、ヴェルクを救うためであり、ひいては領主を助けるためにも必要なことである。
「これはロラン様への、一生に一度の裏切りです。私はこれで永久にヴェルクから追放されたとしても、何ら抗議する権利を持ちません」
対してロランはというと、差し出された勲章には一瞥をくれることもなく、何かを問いかけるような視線をシナンに向けている。
「だ、駄目です!」
そこに文字通り割って入り、アルクェイドはシナンに訴えた。
「あなたがこの領地を離れてしまうというなら、助けなど不要です!あなたはこの領地の人々にとって、なくてはならない存在ではありませんか!」
縋るようなその言葉にシナンは、床に片膝をついて、目をアルクェイドより下に落とした。
「……ですが、私は陛下に救われた身です」
「……!」
「それに、貴方の置かれている状況は、ヴェルクにとっても無関係ではないと申し上げたはず。この領を守るためには、仕方の無いことです」
シナンが抱いている意思の強さがどれほどのものなのか、アルクェイドにも痛いほど伝わっていた。彼をこの領地から奪うこと、その代償として求められるもの――それを秤にかけて、一度は固まったはずのアルクェイドの覚悟が、ぐらぐらと揺れる。
二人が互いに次の言葉を待って見合っていると、それを聞いていたロランが突然、おかしそうに笑った。
シナンが驚いて彼を見上げると、そこにはまるで、天気の話でもするかのような、気張らない笑顔があった。
「水臭いじゃないか、シナン。何もそこまでのことをしなくとも――彼を王子だと信じているなら、他にも方法があるだろう」
きょとんとしている二人に対し、ロランは謎解きのこつでも教えるかのような口調である。
「例えば……緊急事態なのだから、今だけ許してもらう、というのは?」
彼は事を荒立てるのを嫌うが、かといって思い切った言動がない訳ではないのだ。シナンはアルクェイドとロランの顔を交互に見比べるが、すぐに言葉が出てこない。
「しかし……」
「勿論、彼が本当に王子であることと、目的をしっかり遂げることが前提にはなるが」
ロランはもう一度、両手を杖に添えて、床を軽く、とんと叩いた。
「それに、『安穏王』のアルバート陛下だろう。死んだと思った息子を生かして連れてきてくれた人間に、杓子定規に罰を言い渡すとは、私は思わないがどうかね?」
その質問を向けられたアルクェイドは、シナンの視線も受けて、口を噤む。答えに迷ったのだが、よくよく考えなくても、その是非によらずシナンは自分についてくるつもりだ。
ただ、出来ないかもしれないことを出来ると言うのは、また彼を騙すことにならないだろうか。
父が『安穏王』と呼ばれる王のままだったなら、次第はロランの言った通りになるだろう。そうでなければ、彼に恩を返すのは自分自身だ。それが可能かどうかの確信が、アルクェイドには持てなかった。
だからといって、いいえと答えれば、それは言い訳のために一人で王都へ戻ろうとした、愚かな自分と同じ轍を踏むだけだ。
「……そのような、事であれば」
アルクェイドは、ヴェルク領主ロランに向けて、はっきりとした声で告げた。
「無事に王都に辿り着いた時……たとえ父上が許さなくとも、私がシナン殿の無罪を認めます。セルヴァニア王家、ヴェントハイムの名に誓って」
「だそうだよ、シナン」
それを受けて、ロランは少しだけ、子供を叱るような口調になった。
「だから、勲章は付けたままで行きなさい。――一生に一度の裏切りは、まだ取っておくべきだ」
状況が切迫しているからと、ロランに気を回させてしまったことに、シナンはようやく気付く。
それは二人が親子の関係となってから、最初に交わされた約束であり、ロランが与えてくれている最大の許しでもあった。シナンにとってその言葉は、自分の運命に関わる如何な宣告よりも重く、厚く響く。
「……。」
シナンは勲章を手の中に握り込めると、まずはアルクェイドに深々と頭を下げた。
それから立ち上がり、勲章を付け直すと、ロランにもまた、深く礼をする。
「……軽率な発言でした。どうか、ご容赦を」
「分かってくれたなら構わないよ。彼の言う通り、君を失うことは今のヴェルクにとって、最大の痛手なのだから」
その時には、ロランの声色も表情も、いつもの温和さを取り戻していた。
無事に帰ってくるように。
彼が言葉の裏に潜めた最も重要な命令に、シナンはただ、固い決意の面持ちによって答えた。アルクェイドを促して踵を返し、書斎を出る。。
ロランは椅子に座り直した後で、シナンの去った後を見つめているセドウィンに、いつもの調子に戻って声をかけた。
「あの様子だと、シナンは一人で出て行くだろうね」
「ええ、間違いなく」
だてに子供の頃から面倒を見ている訳ではない。話が早いな、と笑った後で、ロランは改めて、その頼みを口にした。
「君が見繕ってくれないか。あの子の至らぬ所を助け、背中を任されてくれる騎士たちを」
未明の城壁を濡らすのは、春先には不釣り合いな冷たさを伴った霧雨だった。
その城は小高い丘の上に築かれ、外周を区切る方形の城壁は一般的な城よりも倍、分厚く作られていた。広大な庭を経て、城は外周のものより一段低い城壁に再度、囲われていた。中央に奥まって左右に長い本城、左右には物見塔を備えた、本城より高く作られた二つの棟が構えている。
ヴェルクの城と同じく、本城の最上階が領主の居住域になっていて、寝室は余裕を持った広さがありながら、内装は簡素にまとめられていた。
「そんな……王子が……!?」
寝台にて体を起こしていた男性が、震える声で呟いたと思うと、激しく咳き込んだ。その妻らしい女性は彼の背中を擦り、水差しから杯に注いだ水を手渡す。
「それは誠なのか、ウルビーズ殿?」
もう一人、扉の前に立っていた剛健そうな男性が、代わって声を上げる。この領地の騎士団長である。
その視線の先、部屋の中央に佇むのは、濃紺の布地に金の縁取りがされた衣服を身に纏った、中年の男であった。
「残念ながら、本当のことです。アルクェイド王子はラドアルタで賊に襲われ……その後、亡骸が発見されました」
目を伏せて痛ましそうに語るその男は王都騎士団の一人を名乗り、連絡もなくこのキームゼン城にやってきて、領主に伝えることがあると言った。その寝室に案内され、彼が病にかかって不自由な生活をしていることを知ると、これは非常に深刻な話ですから、お体に障るかもしれませんよ、と前置きをした。それでも領主モリガンは、領主としての務めを破棄する訳にはいかないと言って、寝台に体を置いたままで男の用件を聞いたのである。
モリガンの咳が収まると、ウルビーズと呼ばれたその男は、話を続けた。
「これはまだ他の領にも、ましてや国民にも知らされていないことです。しかしいずれ公になれば、国内の情勢が混乱することは確実。キームゼン領には、折り入ってお願いがあり、こうして参上したのです」
「……それは?」
「セルヴァニア王国はこれより、ラドアルタ共和国を討伐するための計画を実行します」
ウルビーズは室内をぐるりと見回すと、噂に聞いた通りだ、という感想を漏らす。
「キームゼンは華美を避け、堅牢と伝統を旨とする『守り』の領。モルガン殿、そしてキームゼンの騎士団には、これから起こる混乱を未然に防ぐための役を担っていただきたいと考えています」
そして未だ、不安が大きい三者の表情を一人ずつ見つめながら、言い聞かせるように続けた。
「例えば……最初のうちは、『本当は生きていたアルクェイド王子』を騙る逆賊などが現れるかもしれません。王族の名を使って、力によらない略奪を働いたりする不敬の輩がね」
背中を向け、窓の外を見れば、水気を含んだ雲が少しずつ、空の色から浮き上がりつつあった。
「全てはこの国の繁栄のため。引き受けてくださいますね」
既に義憤を露わにしていた騎士団長の様子を見れば、回答は聞くまでも無い。
三人から見えないように歪められたその表情からは、王族を失った悲しみも、戦いへ向かうことへの憂いも、跡形も無く消えている。
それは自身に施されるはずの輝かしい栄誉だけを見つめる、嗜欲に満たされた笑顔だった。
「……なあ、あの子、大丈夫だったかな」
大きなあくびを一つして、フィーリが呟く。
「……あの子?」
「おいおい、もう忘れたのかよ。この間、お前があの山小屋で助けた子だって」
ああ、そうだ。そういえばそんなことがあった。
『なに言ってるの、あの子なら助けたじゃない。』
すると、フィーリの前に躍り出て、イノが代わりに答えた。
「でも、何処に行ったのか分からないんだろ?」
「…………。」
『だいじょうぶよ』
そう、あの子が何処に行ったのかは分からない。私が使った光が、あの子の姿を消したから、フィーリは私が行き先を知っていると、勝手に思っていたみたいだけれど。
『あの場所には、つながっているところがあったの。そこにあの子を助けてくれるひとがいるわ。』
「……なら、そうなんだろうけど。すごく怖がってたから、心配でさ」
フィーリは、怯えている人を見ると、放っておけないみたいだ。喋り方はぶっきらぼうだし、子供っぽいけど、本当は優しいんだろうな、と思う。
「何だよ」
「……ううん、何でもない」
私はそう答えて、また、どこまでも続く地平の向こうに顔を向けた。フィーリは歩いている途中にも、眠い眠いとよく言うけれど、その感覚はいまひとつ、私には分からない。
気まぐれな雲を浮かべた空には、今にも消えてしまいそうな星も見え隠れしている。村の林の中から見つめていた小さな空と比べて、外の世界の空は、驚くほど色んな表情に満ちている。これまで暮らしてきた家族たちは、こんな空を知っているのだろうか。
今はもう、皆、いなくなってしまった。あの家に戻ることが出来たら、また新しい父と、母と、姉と、弟が、私を待っていてくれるだろうか。
何となく、あの場所にはもう、何も残っていない気がする。そして私は、新しい場所を探さなくてはいけないのだと思う。
けれど、あの場所の外というのは、思っていたよりもずっと広い。そのことが時々、とてつもなく恐ろしくなって、立っていることさえ怖くなると、私は目を閉じるのだ。
すると、暗い視界に、見たことの無い景色が浮かんでくる。赤色の屋根をした建物。夕暮れの草原に佇む動物の影。美しい宝石。闇を裂く光。
イノの言う通り、あの子は無事みたいだ。
「……あの子なら、大丈夫だよ」
どこまでも続いているみたいな深い闇が、ほんの少しだけ、温かくなったように感じた。
(「銀星は告げる」 了)
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