「も、申し訳ありません!急いでいたもので」
イモがいっぱいに入った大きな篭を抱えていたのは、弓騎士隊のレイチェルであった。彼は一しきり謝ると、人好きのする爽やかな笑顔に戻る。
「いや、気にしないでくれ。今日の当番か?」
「ええ、そうなんですよ。今日は半分外に出ているのに、よりによって……」
「外?」
それを聞いてシナンは、レイチェルをじっと見つめ、僅かに眉根を寄せた。
「もしかしてセストもか?」
「はい。初陣の隊員が多いから、だそうで」
程々に会話を終わらせて彼と別れたシナンが、困ったな、と呟いたのがエイドには聞こえたが、仕事の話でもあったのだろうと気には留めなかった。彼にはそれよりも、まるで友人と会っているような感覚で会話をするヴェルクの騎士たちの姿が新鮮に映っていた。
ショーレのものよりも段数がずっと多く、幅の広い階段を三階まで登ると、シナンは扉の空いた客室の一つを、エイドが使うように言った。念のために部屋に入ると、最近掃除されたばかりなのか、きれいに整えられている。が、机の上にある燭台の蝋燭だけが、一つなくなったまま補充されていなかった。
「……カムリだな」
「え?」
「ああ、いや。こちらの話だ」
シナンは部屋の入口に足を向けると、扉に手をかけつつ、座りもせずに部屋を見回すエイドに告げた。
「何かあれば、隣の部屋の侍従に言ってくれ。君のことは伝えておく」
すると、エイドはシナンの方を向いて、思い切った口調で彼を呼び止めた。
「あのっ……!」
それから、彼は気まずそうに視線を泳がせる。部屋に何か気に入らない所があっただろうか、などと思っていると、エイドは振り絞るような声で言った。
「……その、ごめんなさい」
「……?」
「どうしても、事情があって。詳しいことはお話出来ないのです。だから……」
それがあまりに畏まった様子だったので、シナンはつい笑ってしまった。とはいえエイドの方は、頑なに説明を拒んでいることを、本心から申し訳ないと思っているようである。
「そんなに気にすることはない。君が悪人ではないことは分かっている」
「……!」
「他に出来ることがあれば、いつでも言ってくれ」
俯いたエイドを後に、シナンは部屋の扉を閉める。丁度すれ違った侍女に客室を使ったことを伝えると、彼は三階の最奥にある領主の書斎に足を向けた。
城の中では、城門と大広間の扉に次いで重厚に作られた書斎の扉は、二人の騎士が守っている。彼らはシナンの姿を認めると敬礼し、構えていた槍を収めて道を開けた。
扉を大きく二回叩き、シナンはその分厚さを貫けるように声を張った。
「シナンです、只今戻りました」
「入ってくれ」
返ってきたのは、いつもと変わらない様子に聞こえる、ロランの穏やかな声だった。扉の軋みを伴いながら中に入ると、彼は椅子に座ったまま、黄昏の空を眺めていたようである。
「おや?帰りが早いじゃないか」
開口一番そう訊ねられるまで、シナンは自分の予定が変わっていたことを忘れていた。
「それが、ちょっとした用が出来たので……孤児院には泊まらずに戻って参りました」
「そうだったか。すまないね、休みたいだろうに」
ロランの柔和な微笑は、しかしシナンを安堵させはしなかった。扉越しではいつも通りに聞こえた声も、目の前で聞くと、どことなく覇気が無いように感じられたのだ。また、その原因が机の上にあるものらしいこともすぐに察しがついた。
「それより、お話というのは?」
あえて聞けば、やはりロランはその容器を手に取り、シナンに示して見せた。
「この入れ物のことは知っているね?」
「ええ」
「……中身は、これだ」
それからロランは蓋を開けると、小さく折りたたまれた紙を取り出した。開く前に分かったのは、それが分厚く滑らかな、上等の紙であることだった。シナンは何かしらの説明を期待してロランを注視したが、彼は彼で何も語らず、シナンが中身を見るのを待っている。
嫌な胸騒ぎがする。しかし、この情報は本来、領主であるロランだけが知っているべきものだ。自分がその唯一の共有者なのだから、拒否する訳にはいかない。
蝋燭の灯りの下で、シナンは慎重にその紙を開いた。幾つかの言葉が先んじて飛び込んできて、シナンの頭は止まりそうになったが、何とか最初から最後まで、読み終えることが出来た。それは彼から言葉を奪い、心身を凍り付かせるのに充分な内容であった。
ラドアルタ共和国への親善訪問から帰国途中だった、アルクェイド王子、及びその親衛隊が、何者かの襲撃を受けた。
場所は両国の国境付近。数名の騎士が死亡し、王子は行方が分かっていない。
たったそれだけの短い文章が、二人の脳裏に共通の印象を呼び起こしていた。荒れ狂う炎。大地を引き裂く風、そして、命を奪う黒い霧。
シナンは手紙をロランに返すと、抱くべき感情すらも見失ったまま、スカルドの表面に刻まれた紋章に目を落としていた。
「……決定的な事件というのは、いつも唐突だね」
ロランは手紙を元通りに折り畳んで、スカルドの中に戻し、机に肘をついた。落ち着いてこそいるが、彼の声色にも、やり場のない思いは十二分に汲み取ることが出来た。
セルヴァニアの現国王、アルバート二世の嫡男であるアルクェイド王子は、温厚な性格であった父の血を継ぎ、隣国との平和を切に願っていたという。彼がラドアルタを訪ねる予定であることは、ロランにも数か月前に知らされていた。だが詳細な日時や、一行が通る地域については伝えられず、ヴェルク騎士団が特別な対応を要求されることもなかった。ラドアルタへの親善訪問の、もはや通例となった形式である。
情報がそこまで極秘にされるのは他でもなく、セルヴァニアとラドアルタが友好関係になることを拒む者が存在するからだ。王族の居場所を事前に推測できる情報が漏れれば、危害を加えようとする者に利用されるかもしれない。訪問が行われるようになってから今まで、実際に王族に付き添う人間以外には徹底的に秘密が貫かれ、その功あってか、これまで王族が襲撃を受けたことはなかった。
だが今回はそれが初めて、しかもラドアルタで起こってしまった。
全く予想外の事態ではない。セルヴァニアにラドアルタとの決裂を望んでいる勢力があるのであれば、ラドアルタにも存在しているだろう。むしろ、これまで問題が起きたことが無かったのが幸運だったのだ。また、アルクェイド王子の親衛隊となれば、王都騎士団でも選りすぐりの精鋭たちである。それがいとも簡単に王子を見失ってしまうというのは、ただの賊の襲撃であれば信じられないが、魔法を使う相手であったなら分からない。
「最も恐れていたことの一つ、だろうね。王子がご存命でもそうでなくても、ラドアルタが関わってさえいれば、セルヴァニアが怒りを向ける理由になる」
「……。」
「当然、ラドアルタも抵抗する。第二の黒霧戦争……それとも、全く別のものになるか」
味わったことのない息苦しさの中で、シナンの中に浮かんだのは、つい昨日起きた一連の出来事だ。
ラドアルタのことは、よく知っている訳ではない、愛着もないが、憎悪もしていない。今ある平穏が続きさえすればいい。シナンがヴェルクのために戦う最大の理由はその気持ちにある。
盗賊が未だに根絶やしにされていないように、基本的にその領で起きている問題は、その領の統治者と騎士団によって解決されなければならない。逆に、国家の存続を脅かす事態においては、地方の騎士団も一時的に王都騎士団の一部となり、戦線に駆け付けることが暗黙の了解とされている。
今回の場合、もしセルヴァニアが何らかの行動をラドアルタに仕掛けたとして、それに参加しない領があったとすれば――その領は自国の王族が危害を加えられたことに対して、特に思うところがないとみなされるだろう。
「……最悪の展開になれば、ヴェルクは無傷ではいられない。しかし、辺境の領が受ける傷と、王族を失ったことへの報復……秤にかけられるはずもない」
「……。」
「何かあるはずです。止める方法が、何か……!」
机に手をつき、声を震わせるシナンを前に、ロランは目を伏せた。
「……何にしろ、今の私たちに出来ることは何もない。他の領にも同じ報せが行っているのか、それを知ることさえも」
「……。」
「カインデル領やマルキア領には、世話をかけることになるかもしれない。そのくらいの支度はしておこうと思っているよ」
シナンは顔を上げることも出来ず、ひたすらに気持ちを整えようとしていた。このままでは他の人間、特にあの少年には、今までと同じように接する自信がない。
もし、一欠片の希望があるとすれば、それはあの子が持っている。
東の空には既に、夜の帳が完全に降りたようであった。
長い夜になりそうだ。心中で呟いたその言葉が予言になるということを、シナンは当然、知る由もなかった。
「――な、何者だ、お前たちは!?」
今宵は月が昇らない。松明の火は地面に落ちて消えそうになっていたが、無骨な手がそれを拾い上げ、傍らにいた者に持たせた。
あの時に似た――夜の闇と冷たさが作り出す、見慣れた場所を異境に変えてしまうような、あの空気。しかしここには生き物の息遣いすらない。胸を破る程に打つ鼓動、噴き出す汗、体を急激に蝕んでいくそれは、殺伐とした戦いの気配だ。
体中を殴りつけられた二人の騎士が、木の根元に転がされて、それを数人が縛り上げ、運ぶ準備をしている。
残されているのは頬にそばかすのある、少年のような顔立ちの騎士――カムリであった。槍を構え、牽制しようとするが、全身が震え、一歩動くことすら出来ないのは傍目からも明らかだった。
その人物は、カムリが自分に攻撃してこないことを確信し、いたぶるように間合いを詰めていく。ちらつく炎の中に浮かぶ屈強な体躯に、隈なく刻まれた古傷と刺青。何より楽しくて仕方がないという笑顔が、カムリの汗を顎にまで伝わせ、滴らせていた。
「……そうか、俺とは初対面なのかな」
やがてその手は、まるで木の枝でもよけるようにして、鉄製の槍の先を掴む。
生まれて初めて盗賊と相対したカムリは、気絶しないように歯を食い縛り、目を見張るのが精いっぱいだった。
「俺、レベリオっつうんだ。お前んとこの白髪頭が殺した……先代ロブレン王の息子だよ」
(「不羈の血族」 了)
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