「いや、さっきも皆のことを避けているようだったし……孤児院から逃げ出したのも、関わりたくなかったからなのかと思ったんだ。見当違いなら忘れてくれ」
孤児院でグレンは、この少年に、騎士に力を借りたらどうかと提案した、と話していた。しかし返事をせずに姿を消したということは、彼はそれを拒否したのである。
騎士が領内の商人などを護送するのは、どこでも行なっていることだ。移動範囲はあくまで、その騎士が所属する領の範囲内に限られるが、歴とした騎士団の業務の一つであって、対価が発生しないことは国法で定められている。
少年がそれを知らなかったと言うならそこまでだが、もし知っていた上で拒んだのだとすれば、彼には騎士に頼りたくない余程の理由があるのだとシナンは考えた。憂うべきことだが国内には、盗賊と変わらないような横暴を働く騎士団もあると聞く。そういった騎士たちに傷付けられたことがあって、恐怖を抱いているといった具合だ。
少年は、答えようか答えまいかを迷っている様子で、視線を泳がせていたが、やがて静かな声でシナンに伝えた。その表情はどこか憔悴して、元気もなさそうだった。
「いいえ、緊張しただけです」
「……そうか。」
腑には落ちないが、問い詰められるような様子でもない。シナンは少年の答えを受け取って、それきり何も言わなかった。俄かに空気が重くなって、下の階から聞こえる騎士たちの穏やかな声が、妙に遠のいて感じる。
窓の近くを鳥の影が横切り、ふと外を見ると、光は西の地平に沈んで、赤い炎が残るのみになっていた。少年がどんな顔をしているのかも見えなくなっていて、その瞬間にシナンは、この沈黙を破る画期的な話題を思いついた。
「さっきの首飾り、使ってみせてはもらえないか?」
少年は、先程の質問を受けたときよりも、更に驚いた様子だった。薄暗がりの中でも分かったほどに、である。
彼も、シナンが期待に満ちた表情をしているのが何となく見えたのか、戸惑いながらも鞄の中をまさぐって、首飾りを取り出した。すると、その宝石が比喩では無く、自ら薄く輝いているのが見えた。
少年は、宝石の周りに、丁寧に人さし指を滑らせた。一周、二周までは何の変化も見られなかったが、三周した途端、宝石はみるみるとその輝きを増した。その明るさはお互いの顔どころか、この部屋の隅、向かいの部屋の中までもくっきりと見えるほどになる。
「……すごいな。松明いらずだ」
シナンが単純に感動しているその向かいで、少年はいささか複雑な表情であった。この首飾りは大切なものだったようだし、話の運びによってはもう少し何か聞き出せるのではないかとシナンが考えていると、少年は首飾りを両手に包み、静かに唇を動かした。
「……あの」
「うん?」
「……あなたは……ラドアルタが嫌いではないのですか?」
その言葉に、ああ、そういうことかと納得する一方、シナンの中で一つの予想が正解に近づいた。
ラドアルタ共和国。セルヴァニアの隣国であり、かつては同じ土地に、魔道国ギムドが存在していた。三百年前、草原に突然の侵略を仕掛け、人々に恐怖の記憶を植え付けた国だ。
そもそも魔法とは、古来から人々の生活と共にあった力であり、知恵である。ただしそのあり方や考え方が、国によって大きく異なっているのだ。例えばこのセルヴァニアでは、魔法とは自然に宿る精霊と会話し、天候の変化や災害などを予見する神聖な術とされる。素質のある者だけが修得することができ、魔法を使える者は農耕の民だけでなく、戦いをより有利に運ぼうとする遊牧の民にとっても重要な存在であった。今でも国の政治においては魔法を使える者が召喚され、その予測に基づいて政策や行事の時期が決められている。一方で魔法を直接、人への攻撃に使うことは、精霊の力を穢す行為として忌み嫌われていた。
対してギムドの人々は、魔法を発達可能な技術の一つとして考え、その研究に多くの資源が費やされていた。彼らは素質のない人間でも魔法を使うことができる道具――法具を作り出し、魔法を日々の暮らしの中で、仕事の補助や護身などに使った。その延長線上に兵器としての魔法が生み出され、戦争に使われたのである。
草原の民がギムドを恐れたのは、その威力以上に、平気で精霊を穢しているという宗教的な嫌悪感があったためでもあるのだ。ラドアルタ共和国と名前を変えた今も、彼らの主要な産業はやはり魔法の研究であり、セルヴァニアにはラドアルタを危険視する人も多い。国や国民に良い印象を持たないだけでなく、ラドアルタで造られた法具を持っていれば白い目で見られたり、露骨に迫害を受けたりする地域もあるという。
少年の周りにも、そういった人物が多かったのだろう。
「……正直に言うと、嫌いかどうかというのは、よく分からないんだ」
シナンは少し前屈みになって、膝に両肘を置いた。
「ラドアルタに行ったこともないし、魔法についても俺は素人だ。その首飾りが凄いのかも、珍しいものなのかも、俺には全く判断がつかない」
「……。」
「だが――」
かつて、この領地はギムドの魔法によって火の海にされた。多くの人々が住む場所や、家族、或いは命をも奪われた。もし、それが自分の生きている時代に起きたのなら、激しい怒りを抱き、彼らを憎んだだろう。
しかし、今は違う。
「東の方には、ラドアルタからの商人が来る町もあるんだ。たまに訪ねてみるが……人々は、仲良くやっているように見える」
セルヴァニアの隣国は、ラドアルタ共和国だ。彼らは建国の折、セルヴァニアに対して侵略を行うことはしないと宣言している。そして実際、この三百年間、セルヴァニアはどこの地域とも争いを起こしてはいない。
ラドアルタの人間と話したこともないのに、彼らは攻め込んでくる準備をしている、ラドアルタのものを持っていると不幸になるなどと言っている者もいるが、少なくともシナンにとっては、その町の光景が一つの事実だ。
「俺は、その平和が続けばそれでいいと思っている」
少年は、何も言わなかった。ただその眼差しが、いつの間にか、今までとは違う輝きを宿していた。シナンはそれが何かに似ているな、と思い、すぐに孤児院の子供たちが浮かんできたので、笑ってしまった。練習に練習を重ねた技を褒められたとき、彼らはそんな顔をする。
「それにしても、ずいぶん長く光るんだな」
少年の手の中で、未だに弱まる気配のない光を見つめ、シナンは呟いた。
「……この宝石は、太陽の光を蓄えるんです。だから、昼間に太陽にさらされた時間が長いほど、長く光ります」
「なるほど。でもどうして、草むらの中で勝手に光っていたんだ?」
「それは……分からないですが、多分、光を蓄え過ぎたのかもしれません。それとも草が触れて、ひとりでに動いたのか……」
そして予想通り、少年はいきなり饒舌になった。残りの数は分からないが、彼の抱えていた不安の一つは、取り除くことが出来たらしい。
階段を上ってくる足音が聞こえ、少年は慌てて首飾りを鞄にしまい、その上に寝台の掛け布を被せた。再び部屋の中が見えなくなったが、入り口から顔を出した騎士が松明を持っていたので、すぐに視界が戻ってくる。
「失礼致します。夕食の支度が出来ました」
「ああ、すぐ行くよ」
シナンが立ち上がると、少年もそれについて来ようとしたが、剣を腰に下げたままであるのに気付き、寝台に置いてから戻ってきた。
ようやく武器を手放した少年に、シナンはずっと、聞きそびれていたことを聞いた。
「そういえば、まだ名前を言っていなかったな」
右の手袋の甲に刺繍された、翼を基にした意匠を少年に示す。
「俺はシナン、ヴェルク騎士団の一員だ」
対して少年は僅かな逡巡の後、
「――僕は、エイドと言います」
と、シナンに答えた。


国境の砦の一室、大きな卓と椅子が用意されたその部屋には十数名の騎士が集まっていたが、まるで皆が声を奪われたかのような、歪な沈黙に満ちていた。小さな火が照らす彼らの表情は、凍てついたように動かず、蝋燭だけが一身に熱を帯びて、虚しく崩れ落ちていく。
既に、一報が近隣の領主たちへ送られた。事が動き出すまで、そう長くはない。
最後の発言は、本当にこれでいいのか、という誰かの問いだった。その声の残響も、もはや忘れ去られてしまった。そんなことは本人も、誰かが答える間でもなく知っているはずだからだ。
良かったかどうかは、後の人間が決める。
卓の中央には、小さな勲章が置いてある。銀の素地に、白金や金、螺鈿で装飾された、馬と鷲の紋章。騎士には、これほどの素材を用いたものは支給されない。この勲章を身に着けることが許されるのは、彼らが忠誠を誓う存在だけだ。
死体はまだ見つかっていない。希望と呼ぶにはあまりにも薄弱だが、それだけが頼りなのだ。もしかしたら、勲章の持ち主はうまく逃げ果せて、どこかに保護されているのかもしれない。今はただ、それを願うしかない。

ラドアルタの人間に、セルヴァニアの王族が殺された。
それが事実となれば、もはやこの国の誰も、戦いを止める理由など持たないのだから。


(「辺境の領ヴェルク」 了)